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危機感
小学生のころ、学研の「学習」と「科学」という雑誌を定期購読していた。「科学」には毎回実験キットがついていて、それが楽しみだった。

2年生くらいのことだったと思うけれど、冊子付録がついていて、ナントカという脳の病気で亡くなった同年代の女の子が描いた環境問題についてのマンガが載っていた。そして、地球がいまどんな危機的な状況にあるのかも。

それに刺激を受けて、私は友人たちと所謂「環境運動」をした。

スマートなことは何ひとつできなかったが、そのときいくつか学んだことがある。


それは、危機感をもたないひとに危機をうったえてもまったく相手にされないということと、効果的な方法を考え出さない限り、どんなに努力しても時間と労力を無駄にするだけだということだ。


あのとき、「はやく大人になりたい」と強く思った。



あれからもう15年近くが経過している。

あのときには既にこうなることは予測できていたというのに、
本気で対処してこなかった結果がこれだ。


社会を構成している「大衆」は、どんなに少数の人間が声をあげても自分たちの興味のないことには気もとめない。

「大衆」は目先の興味にだけ集中している。
そしてその「大衆」の行動が、多くの場合この世界の行く末を左右する。

「大衆」がようやく目の前の危機に気づきはじめたとして、少数の人間がずっと前に提言していたことが正しかったと判明しても、もう遅いのだ。
しかも(「アリとキリギリス」のように、キリギリスだけが困るのだったら自業自得で済むはなしだけれど)この少数の人たちが、彼らの尻拭いをするはめになったりするのだろう。

いよいよ、人類は滅亡の危機に直面している。







地震が来るかもしれないとちらりと考えたとしても、
ほとんどのひとがそれに対して行動をしない。
危機感がないからだ。

先日、「一日前運動」だかなんだかいう資料を見たのだが(自然災害などの被害者が、もち一日前に戻れるなら何をするかというメッセージを集めたもの)、そこまで切実になれるのは、実際に強烈な体験をしたからだろう。


ライフラインが切断された状況を想像してみる。
家屋が倒壊して、町中が火の海になることを想像してみる。
食料が不足することを想像してみる。




次の瞬間に何が起こっても後悔しないだろうか?
トラウマ
過去にショックな体験をし、
そのときの状況と似た状況がさしせまると、
ヒトは意識せずに「また同じ結果になる」と判断することがある。
そして同じ体験をしたくないからそれを避けるか、
過去の体験に付随した感情を再現してしまい、
パニック状態に陥ったりする。


これを塗り替えるには、ひとつは
それを体験しなおすことだと思う。

その体験自体にきちんと向き合って、
離れたところから自分自身を含む全体を観察してみること。

もし理性で抑えてしまった感情や、
言いたかったのに言えなかったことがあるのなら、
きちんと完了させること。


「トラウマだから」というふうに
安易に理由づけして事実を見ないようにしたり、
逆に感情を抑えたりしない。




もちろん、これは難しいことだと思うし、無理なら
「今は無理だ」とわかっていればそれでいいと思う。


時間はかかるものだ。


でも、そのショックな体験を乗り越えることができるとき、
何かを学ぶことができている。


もっとも感情の揺れ動くところに、
気づきや学びのチャンスが眠っているのだと思う。
私の身体は頭がいい
内田樹さんがそういうタイトルの本を書いているが、
こんなことは日常茶飯事だ。

頭で認識するよりも先に、カラダは動く。しかもすごく正直に。


小学生のとき、風邪で意識が朦朧としていても、カラダが勝手に動いてくれていることに気がついたときの驚きと感動は大きかった。

私の体は宇宙の縮図のようなものだなーと思ったものだ。

カラダの細胞のひとつひとつが私を生かそうとがんばってくれているのだと思った。私の意識は無力だけれど、この不連続な陽子やら中性子やらは、どういうわけだかひとつの「私」というものを、引き合いながらつくっている。



いつものように言葉がうまくまとまらないのだけれど、
本来はバラバラのものがこうしてひとつの「わたし」ってものをつくっているということが凄く不思議で、凄く感動したのだ。

しかも、私はどうやってブドウ糖を分解すればいいのか知らないのに、
私のカラダはそれを当たり前のようにやってのけているのだ。

凄すぎる。



人間は、たんぱく質やアミノ酸などからどんな生命体もつくりだせない。


人間にできることは、せいぜいその神秘的な創造の力に頼って、固体を複製することぐらいだ。



「頭がよい」ことと、「賢い」こととは違う。



世の中には、身体能力は高いのにスポーツ音痴という人がいる。

いくらひとつひとつのパーツの性能がよくても、それらがバラバラに動くのならばほとんど役に立たないのと同じように。






頭で理解することとわかることは違う
頭では意味がわかっても、ほんとうに「わかる」ということにはならないのだということを、韓氏意拳に少し触れただけでもあらためて認識した。
正直に生きたい
苦しいなと思ったら
じぶんのきもちに
すっかり素直になってしまうといい

自分のこころを騙してまで
生きていけるほど
(私は)我慢強くない

こころで納得していないのに
頭で納得しようとしてしまうから
ズレが生じてしまうのだ

というよりか
じぶんが<ほんとうには>
何を求めているのか
わからないか
見失ってしまっているときがあるから

そういうときは
苦しくなってしまうのだろう



自分を苦しくさせているのは
いつも自分自身だった




こころの荷物は少ないほうがいい
できるだけ身軽なほうがいい

背負っているものを
地面に下ろして
歩けばいいものを

あれもこれもと
身につけていこうとするから
大変なのだ


…と
こころでわかって
実践できるようになりますように


まずは次の一歩から







ああ、今日はたのしかった


ほんとうに
たのしかった






マクロビオティック
だいぶ昔、マクロビオティックの食事をやっていたのだけれど、
ゆっくり食事をつくったり食べたりする時間がなくなって、
疎遠になってしまっていた。
(ごはんは必ず雑穀と黒米を混ぜて炊いていたけれど)

それが、2ヶ月ほど前から、ふたたび意識して
久司流マクロビオティックの食事法を実践している。

といっても、私は動物性たんぱく質だって摂る必要があると思っているし、お酒だってたまには摂ってもいいと考えているから、がちがちの食事法にはなっていない。


食物は、自分の体を構成する要素になるのだから、
よいものをとるのに越したことはないと思う。

特に水は、波動をよく伝えることから、よいものを摂りたい。


そして、頭で食べるのではなく体で食べ、貪欲にならないようにしたい。




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