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私の原点 その1
このブログのタイトルにもなっている「腐海プロジェクト」について。
これから徐々にその構想をアップしていきたいと思います。


まず最初に言っておきたいのは、現在の私が今に至るまでの過程についてですが、(これは誰にとってもそうだと思うのですが)今まで関わってきたすべての事柄が私というものを作りあげてきた要素のひとつとしてあげることができるので、いくつかの事柄だけを取り上げて「これこれこういうことが原因で今の私ができました」ということがいえないということです。

つまり、私が今に至る過程というのは、私がいままで生きてきた過程そのものの一時的な結果なのであり、その結果というのも刻一刻と変化している…いまこの瞬間にも私という存在は変容していっているのですから、その過去(いまこの瞬間ですら一瞬の後には過去となる)の過程をすべて説明することは不可能に近いでしょう。



ただ、いくつかの主な要因は挙げることができると思います。


幼いころの体験のなかで忘れられないもののうちひとつは、
保育園の年長組のときの先生の、何気ない一言です。

お昼寝の時間に、先生が蛍光灯を指差して、
「この電気はね、点いているように見えるけれども、実は点いたり消えたりしているのよ」と言ったのです。
私はびっくりしました。
ずーっと点いているように見える電気が、実は点いたり消えたりしているというのはどういうこと!?と。

その先生がなぜそのようなことを言ったのか、どのような意味合いで言ったのかわかりませんが、すでにその当時、科学に興味のあった私は、なんとなくそれがミクロの世界に関わることだと思いました。

それから、小学校の低学年のころには原子というものを知り、どのような物体もミクロの視点で見れば、(バックミンスター・フラーの言葉を借りれば)連続してはいないのだということを直感したのでした。
ですから、私と誰か他のひとの間には、厳密には隔たりとか区別というものはない、というふうに思いました。

電気については、このころ光を粒子だと思っていたので、蛍光灯の端からでた粒子が反対側まで走っていて、それが連続していないから、先生は「点いたり消えたりしている」という表現をしていたのだと解釈していました。



二つ目。
同じ頃ですが、運動会の何日か前に居間の戸口にいたときのことです。

もう長いあいだ運動会の練習をして、あとは本番を待つばかりという日のことです。どうせ当日に行うプログラムの大半は練習でやってしまって体験済みなので、なんとなく想像がつくのに本番があるなんて、なんて面倒臭いのだろうと考えていたとき、居間の壁にかかっていたカレンダーが目に入ったのです。

そういえば、何月の何日に何があるかという大まかな予定は決まっていてある程度予想はつくのに、実際その瞬間になってみなければそのときの体験事態(あらゆる感覚)というのは得られない。ようするに、その瞬間の体験というものは、あらかじめシミュレーションできないその瞬間独特のものだということに、気がついたのでした。

運動会だとか何かの発表会だとか、そういうことを人間は決めることはできるけれど、そのとき、その瞬間に起こる出来事事態は誰にもプログラムできないことなのではないか。いや、もしかしたら神様がそれを決めているのか。だとしたら、これから起こることはすべてあらかじめ決まってしまっているじゃないか。。。大人たちはそのことについて知っているのだろうか??

…結局、私は親にそのことを尋ねませんでした。
なんとなく、それについて誰も答えることができないだろうと思ったのです。だから、そのことは自分の胸のなかだけにしまっておくことにしました。



三つ目。
自宅裏の畑にいるときのこと。
私は土をいじるのが好きで、学校に行かなくてよいときは、いつも祖父母と田畑に行ったり山に入ったり、野原で遊んだりしていました。

必要なものはそろっていたのです。

お金というもの意外は。

先祖代々伝わる土地と家がありながら、そしてほぼ自給自足の生活ができていながら、両親はお金というものが必要なのでサラリーマンになりました。この社会では、ただそこに存在するというだけで、お金を払わなければならないという仕組みがあります。

住民税、固定資産税、etc.


私は幼いころから、これがどうしても納得いかないのです。

なぜ、必要なものはそろっているのに、そこに住むだけでお金を払わなければいけないの?

両親のように、お金を稼ぐために一生あくせく働いて。
これでは家賃や食費のために、貨幣システム(社会システム)に無理やり閉じ込められて、ラットレースのネズミのように働かなくてはならない。家賃のために生きて働いているようなものです。
(働くということが自分の生と一致している場合は違いますが)

なぜ、生きるというこの体験自体のために生きることができないのか?



土地は誰のものでもなく、誰のものでもあります。

ネイティブ・アメリカンのひとたちが云うように、私たちの誰の所有物でもない大地や空気といったものを、どうして売ったり買ったりすることができるでしょうか?

この地球上で、ヒトがはじめて「この土地は私のものだ」と言ったときから、「所有する」ということが当たり前になってしまいました。

(今日では「所有する」というのがあたりまえになり、「共有する」という思想はともすれば安易に「共産主義」と捉えられてしまいます。)


話は変わりますが、もともと物々交換で成り立っていた私たちの社会は、お金というものを発明したことにより大きく変化しました。

お金が誕生することにより、富を保存蓄積する、ということが可能になります。

ここの部分は話せば長くなるし、まだ考えがまとまらないのですが、
まず作物などは腐ってしまいますが、お金は腐りません。

そして需要と供給の関係が1対1でなくてよくなるのです。
より複雑な商売というものが成り立ちます。

…まぁいろいろあります(笑)。

飛躍しますが、今私は、お金というのはエネルギーの保存形態のひとつであると考えているのです。

だけど、一般に云うお金それ自体は意味がありません。


富の定義とは、(フラーがどこかで云っていたかも知れませんが)、明日仕事をやめていつまで生き延びられるかというようなことだと思います。

いくら蓄えがあるかということではないのです。


また、成功の定義とは、朝起きて夜寝るまでに、自分のしたいときにしたいことをして過ごせることだと思います。

別に世にいうお金もちになることや、名声を得ることを成功と呼ぶのではないと思います。



私は、ただ生きる(生を味わう)ために生きたいと思います。

いつものように話にまとまりがないのですが、今日のところはここまで。

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