スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
誰かの言葉・自分の言葉
ときどき「あなた自身の言葉で」という表現を耳にする。
「神の声」とか「啓示」という言葉も。


私はこれらの言葉にとても敏感に反応してしまう。
何かに敏感に反応する、ということは、その裏に何かがあるということだと思う。

私が最初に挙げたいくつかの言葉が気になることの裏には、自分が今喋ったり考えたりするときに使っている言葉は、もともと誰かほかのひとのものだったというふうに考えているからだと思う。

生まれたときから、周りの人間の言葉を聴き、表現を聴き、話を聴き、そしてそれを自分のものとしてアレンジしながら使っている。もともとは、誰かほかのひとが発した言葉を自分のなかに取り込んで、忘れてしまう。忘れてしまうんだけど、それは確実にそのひとの一部となってそこにある。
食べ物を食べたあと、意識しなくても勝手に血や肉となるのと同じように。

そして、あるときそれらが化学反応のように結びつき、あるかたちをなして現れてくる。




それから、私は「神の声」とか「啓示」という言葉からは、その言葉がどこか天から振ってきたような感じを受けるので、あまり好きではないのだなぁと思う。

私は、前にも書いたように、宗教や信仰といったものに関してとても敏感で、いつも少し離れている。
でも、それと言葉にはできないけど感じる「何か」というものをもっていて、それを自分の「”宗教”以前の宗教」というか……そういうふうに思っている。

目にみえないものを信じないわけではない。

でも、どこか「神」とか「啓示」という言葉にこだわってしまうのは、そこに何か壁があるのかなと思う。


たぶん、恐れがある。


誰かの言うことを、鵜呑みにしてしまうようなことに対する・・・?
自分自身が感じることをどこかに追いやってしまうような強力な何かがそこにはあるような気がする。

たぶん、宗教家とか教祖(宗教に限らず権威とされているひとたち)のいうことを何でも信じてしまうことが怖いのだと思う。


言葉は、どこからかやってくるように「感じる」かも知れないが、確実に自分のなかから湧いてきているような気がするのは、私だけだろうか?
どうしてその言葉がそのとき想い浮かんだのか、ということはわからないけれど。それは、それこそ何か見えないもののちからとか囁きといってよいのかもしれないと思う。



何か、想いつくままに書いてみましたが、この言葉も、いまこの瞬間のわたしにとっての言葉で、私に限定された意味での言葉たちだと思います。
だから、これを読むひとそれぞれ、受け取りかたが違うわけ。
そして、この言葉たちが、またこれを読んでくれているひとの心に、かたちを変えて移っていくんでしょう。

スポンサーサイト

Comment

管理人にのみ表示する


Track Back
TB*URL

Copyright © 腐海プロジェクト2005-2008. all rights reserved.
Design by Pixel映画山脈

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。