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宗教と信仰
私は、ある新興宗教に入信している家庭に生まれたので、ものごころついた時にはもうその宗教を信仰するようにしつけられていました。

云われるままに勤行をし、座談会に出席し、仏教関係の本を読みました。
大人たちは、何時間も正座をして勤行をすることを褒め、そのころ遺憾なく発揮されていた私の様々な才能は、すべてそのおかげだと言っていました。

他の宗教は謗法(ほうぼう)で、それを信じている人たちはいずれか地獄に落ちると聞かされ、他の宗教に関係のあること(初詣、地蔵祭り、クリスマス、地元の神楽保存会への参加等々)に関わってはいけない、もし仕方なくその場にいっても決して拝んだりしてはいけない、というようなことを云われていたのです。


でも小学校にあがって間もないころ、そのことを疑問に感じはじめました。


どうして、他の宗教のひとたちのことを地獄に落ちるだの何だの云うんだろう?
どうして、一生懸命に信仰しているわりにうちの家族はいつも幸せじゃないんだろう?
どうして、私はこの宗教を信仰しなくてはいけないんだろう?



既にいろいろな書籍を読むようになっていた私は、他の宗教の本も読むようになっていました。それは、純粋な興味からそうしていたんです。
でもあるとき、友達からこっそり借りて『新約聖書』を読んでいたら、祖父に見つかってしまってこっぴどく叱られてしまいました。
「謗法だ!」
祖父の気持ちはよくわかります。私に幸せになってもらいたいという気持ちは。
でもそのころ既に、私は「宗教」を必要としていないということに、気付いていました。



それからは、家族の中で私だけが異端児でした。
どれだけそのことで口論したかわかりません。
家族と私との間には隔たりがあり、その隔たりをつくり出していたのが「信仰」でした。
その「信仰」というのは、「教祖への信仰」「教団への信仰」です。

幼いころより、仏典を学べるというのはとても良かったと思います。
ブッダの教えには、いつも驚いていました。
ただ、それとこの宗教団体というものの間には、大きな溝がある。
「教義」を学ぶことと、この団体や教祖を崇拝することは違う、と思ったのです。

だから、私はそこから離れていることにしました。


家族はそんな私を批判しましたが、その宗教団体の集まりに参加するよりも、森や野原や畑をぶらぶらしていることの方がよっぽど好きでした。
自然の中にいると、いつもいろんなことが自分のなかに浮かんできました。
ひとりですので、歌うことも自然に話し掛けること(周りから見れば独り言)も踊ることもできました。とても多くのことを学んだと思います。
泣きたいときも、うきうきしているときも、ひとりで森や林や野原に出かけていっては、友達(樹や草や太陽や月、鳥、雲など)に伝えました。


今思うと、そうすることによって沢山のことを得るとともに、人とコミュニケーションをとる機会を失ってもいたのだと思います。


高校の受験勉強のときに、父に「お前は勤行をしないから、きっと落ちるぞ」と言われました。
でも、私は合格しました。
合格して独り暮らしを始める前に、「偉いひと」が来て「あなたがこれまで上手くやれたのは、前世の徳のお陰だけれど、これからはそうもいくまい」と仰いました。

このひとたちは一体、私に幸のしあわせを願っているのか?それとも不幸を願っているのか?



話は変わりますが、私はそれぞれの宗教の良いところは自分の信仰の源にしています。
この「信仰」というのは、宗教を信仰するという意味での信仰ではありません。
「宗教以前」といったらいいのかな?




宗教については、もっともっと思うことがありますが、今日はもう寝なくては。
また書きます。
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