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メタフィジクス
ここまでくるのは、ほんとうに長かった。


これからは一気に加速するだろう。

加速すると、これからの一日一日は
これまでの一ヶ月にも一年にも
(あるいはそれ以上にも)匹敵するだろう。


私は「このために生まれてきた」といえることをこれから為す。



その確信と自信だけは、
あの小学校一年生のころから変わってはいない。
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弟子の準備の整ったときに、師は現れる
テンセグリティ・ワークショップ
テンセグリティ・ワークショップに、Jさんが今回のスタードームの記事をアップしてくれた。
どうぞご覧ください。


ちなみに、帰宅してからちゃんと作成ガイドに目を通すと、
もっとずっと簡単にドームをつくれたはずだったことがわかった。
が、それもいい経験となったと思う。

人生の転機
2年程前からのほんとうに苦しい時期を経て、いまようやく人生の次の段階への転機にさしかかっているのをはっきりと感じている。


悪い時期があれば良い時期もある。


素晴らしきかな、人生。



スタードーム
21日および22日に、京都の山奥でスタードームを作成した。
(後日、画像をアップします)


竹を裂いて繋いでしなやかな棒をつくり、
組んで外側からテンションをかけると、
直径およそ6メートル、高さおよそ3メートルの
ドームができる。


頂点と周囲に、あわせて6つの星型ができることから
スタードームと呼ばれている。


5人で作成したのだが、おおまかな手順と設計図があるだけで
誰もつくったことがないという条件だったが、
何とか完成することができた(資材が調達できなかったために、
今回は天幕をかけることはできなかった)。


途中、ドームが安定せずにぐにゃぐにゃして倒れそうになったり、
どこに竹を差し込んでいけばいいのか悩んだりして、
一時はどうなることかと思ったけれど、完成したときには
全体のテンションで美しい半球型が生まれ、
スターが現れたときには、ただただ「凄い」と言うしかなかった。



また、この機会に新たな仲間と出会い、
とても刺激的で有意義な時間をすごせたことに、本当に感謝している。

自分のなかであたためていた様々なアイディアが、
彼らのもっているものと化学反応をおこして、
わくわくするような計画がいくつかもちあがった。


構想や理論だけの時期はもう終わった。


腐海プロジェクトもいよいよ実験と実践の段階に踏み込んでいく。
三十輻共一轂
三十輻共一轂。当其無、有車之用。埏埴以為器。当其無、有器之用。鑿戸牖以為室。当其無、有室之用。
故有之用以為利、無之以為用。
善行無轍迹
善行無轍迹。善言無瑕謫。善数不用籌策。善閉無関楗、而不可開。善結無縄約、而不可解。
どうあることが望ましいかということに焦点を合わせる
どうしたら問題が解決されるか、ということが重要なのではなく、
どうあることが望ましいのか、ということが重要である。


「環境を改善するにはどうするべきか」
ということに焦点を合わせるのではなく、
「人類はどう生きるべきか」
ということに焦点を合わせるということだ。
危機感
小学生のころ、学研の「学習」と「科学」という雑誌を定期購読していた。「科学」には毎回実験キットがついていて、それが楽しみだった。

2年生くらいのことだったと思うけれど、冊子付録がついていて、ナントカという脳の病気で亡くなった同年代の女の子が描いた環境問題についてのマンガが載っていた。そして、地球がいまどんな危機的な状況にあるのかも。

それに刺激を受けて、私は友人たちと所謂「環境運動」をした。

スマートなことは何ひとつできなかったが、そのときいくつか学んだことがある。


それは、危機感をもたないひとに危機をうったえてもまったく相手にされないということと、効果的な方法を考え出さない限り、どんなに努力しても時間と労力を無駄にするだけだということだ。


あのとき、「はやく大人になりたい」と強く思った。



あれからもう15年近くが経過している。

あのときには既にこうなることは予測できていたというのに、
本気で対処してこなかった結果がこれだ。


社会を構成している「大衆」は、どんなに少数の人間が声をあげても自分たちの興味のないことには気もとめない。

「大衆」は目先の興味にだけ集中している。
そしてその「大衆」の行動が、多くの場合この世界の行く末を左右する。

「大衆」がようやく目の前の危機に気づきはじめたとして、少数の人間がずっと前に提言していたことが正しかったと判明しても、もう遅いのだ。
しかも(「アリとキリギリス」のように、キリギリスだけが困るのだったら自業自得で済むはなしだけれど)この少数の人たちが、彼らの尻拭いをするはめになったりするのだろう。

いよいよ、人類は滅亡の危機に直面している。







地震が来るかもしれないとちらりと考えたとしても、
ほとんどのひとがそれに対して行動をしない。
危機感がないからだ。

先日、「一日前運動」だかなんだかいう資料を見たのだが(自然災害などの被害者が、もち一日前に戻れるなら何をするかというメッセージを集めたもの)、そこまで切実になれるのは、実際に強烈な体験をしたからだろう。


ライフラインが切断された状況を想像してみる。
家屋が倒壊して、町中が火の海になることを想像してみる。
食料が不足することを想像してみる。




次の瞬間に何が起こっても後悔しないだろうか?
宇宙人
こどもの頃のある日、
夕日で長く引き伸ばされた自分の影を見ながら、
はっきりと人間が「宇宙人」であることを知った。
なぜヒトが存在するのか?
1997年の私のノートにはこんなことが書かれている。

「動物保護団体の人たちに言ってやりたい。
もしほんとうに動物たちを護りたいならば、
あなたたちが死ぬことが一番いいのかもしれないよ、と」


「ヒトはなぜ存在するのだろうか」という疑問への
科学的な回答は、隠されてはいないだろう。

だが今の私には、まだはっきりとはわからない。
森林と水
小学生の頃、大雨が降って、
祖母の住む家が屋根まで水につかった。

阿蘇のカルデラの斜面に植林された杉の林が地すべりをおこし、
流木が平地へと流れて、家々を破壊した。


下流の市街地を守るために、ダムで水がせき止められ、
上流に濁流があふれて、多くの民家と田畑がダメになった。


アスファルト(特殊な加工が施されたもの以外)に降った水は、
土壌に染み込むことはできない。

雨が降るのに断水するというおかしな事態を引き起こしている。




街路樹の落ち葉をわざわざ掃除して、燃やしてしまう。
それらの木々には電飾がまきつけられている。

「都市環境デザイナー」は何もわかっていない。







日本哲学とインテリ(アカデミズム)
日本の戦後からの哲学界は、
いかに物事をややこしく考えることができるかということに徹している人たちのムラ社会である。


長谷川宏さんのヘーゲルの翻訳以外の哲学書は、ほとんどすべてそうした人の
自己満足と自己顕示欲の産物である、と云えるかもしれない。
子どもというカイブツ
自分の子供の頃は、自分の可能性を信じて疑わなかった。

すべてのものが面白く、不思議で、そして
それらを理解したい、理解できると思っていた。


けれども、小学生の中学年くらいから
「思考的な挫折」を味わうようになった。


「光を投げながら、光の速度で後ろにバックしていったら、
光はどうなるの?」

「飛行機がヨーロッパへ飛ぶ場合、
宇宙的に見たある一定の位置にとどまっているように努力するだけで、
地球の自転によって目的地に着くんじゃないのか」



こういうことを先生に聞いても、「わからない」といわれるだけだった。

今のようにインターネットが普及していないときに。



田舎の人間は、自然環境に恵まれる反面、
情報や出会いといった人間社会的環境に恵まれていない
(勿論イチガイにはそう云えないが)。



子どもだった私は、だんだんと自分の脳みそが凝り固まっていくのがわかった。


それとともに、自分より若いネット時代の子どもたちにどんどんと追い越されていくのを感じた。



大人が子どもに一方的に「教育する」ということは、ありえない。

これからの時代は、子どもが大人に教育するだろう。



教育改革と叫ばれて久しいが、子どもの才能を伸ばしてやれる教師は
ほんとうに少ない。

子どもの疑問に正しく答えてあげられる大人が一体どれだけいるというのだ。



爆発的に発達していく子どもの知能に触れると、ただただ驚異を感じる。


大人が子どもにできることといえば、子どもの能力の発達を遮らないようにすることと、サポートするためにむしろ自分自身が学ぶこと。
環境をととのえることである。


植物の芽を育てるのは、宇宙(自然:じねん)である。
植物がよく成長するためには、ただただ環境をととのえること。
余計な肥料をやってかえって能力を奪うのでも、
雑草を抜くのでも、
農薬で「害虫」を殺すのでもなく、
土をただ「おこす」ことである。

福岡正信さんが行なっていた自然農と、
それに続く自然農法が、それを証明してくれた。
私が田舎を離れた理由
私は高校入学と同時に生まれ育った山村を離れた。

なぜだったか。


そのうちのひとつの理由は、
村の人間は考えるということをあまりにしないので、
自分はあわないと思ったから。


考えるということをしないのかできないのか。

話が通じなさ過ぎて、小学生のころから
私は大人も含む周囲のひとたちに
「変わったひと扱い」をされていた。


彼らの思考は、冒険をすることをしない。

だから公務員になるのが親孝行だ、
自民党が一番だ、
ということになる。



彼らの情報源というのは、口コミかテレビか新聞に制限されている。


私は本を読んでいた。
ETV特集を見ていた。
夜空を眺めていた。
森のなかへ入った。
いつもひとりで思索していた。


そして、やはりここにはいられないと思った。


田舎には足りないものがある。


私にはそれが都市にあるように思えた。




そしてそれはやはり都市にあった。



中学生のころに夢見たことは、都市と田舎の融合だったのだが、
今では違ってきている。



融合なんてものではないのだ。
もはや「自然」は「自然」ではない。
私の生まれ育った阿蘇の自然は、もはや美しくはない。

観光に訪れた人々が目にするのは、
錆びたトタン屋根の農作業小屋と、
安っぽい建売の住宅と、
杉とヒノキの醜い森林と、
剥げた看板と、
まばらに見かける老人の姿だけである。


そこには、もう本来の「自然(しぜん)」はない。


観光客が見ているのはもはや、
彼らのためにつくりあげられた自然(しぜん)「ですらない」。


そうであって、なおかつそれは自然(じねん)であるのだ。
誰かを心配することは、相手にとってある意味失礼なことだと思う。

そのひとのちからを信じていないから。



誰かを心配するこころの動きはとても自然なのだが
実は、心配すればするほど、相手は困難な状況に陥るだろう。

「心配だ」
というネガティヴな言葉を相手に投げることは、
相手を呪うことにもちかい。


配慮することと心配することは違う。


子供のことを心配して、必要以上の手助けをすることは
その子供のちからを奪うことになるだろう。

心配することは自然なことなのだが。



「親は子を 育ててきたというけれど 勝手に赤い 畑のトマト」
                          俵万智
受け止めること
憎んだり、恨んだり、恐れたり、怒ったり、
そういうネガティヴな感情を誰かに対して抱いたとき、
無理に抑え込まないほうがいい。


感情で理性を失ってしまうのでもなく、
理性で感情をコントロールするのでもなく、

自分がどういう感情を抱いているのかということに
気づくことがまず大切で、

それを相手に伝えることで、
フィードバックをもらうこと。
(職場などでは難しいかもしれないけれど)


それから、なぜ自分がその感情を抱いたのか
そのことに気づくこと。
たいていそこに、自分が大事にしていることだとか
恐れていることだとかがある。


それから、自分の立場を相手と入れ替えてみるか、
誰かに再現してもらうなどして、
(プロセスワークでいうところのロールをとるということかな)
自分の体験したことを外から眺めてみる。



激しい感情の只中にあるときは、それに振り回されてしまって
こういったことをすることは難しいと思うが、それはそれでいいという気がする。



自分の行動、言動、思考、それらすべてへの
フィードバックを、きちんと受け止めることだ。

自分の人生を他人のせいにするのではなく、
自分のものとして引き受けること。



いまの自分の人生は自身の選択の結果であることを忘れて、
(もちろんそれだけではないのだけれど)
誰かほかのひとのせいにしているうちは、
不平不満ばかりの人生になるだろう。
トラウマ
過去にショックな体験をし、
そのときの状況と似た状況がさしせまると、
ヒトは意識せずに「また同じ結果になる」と判断することがある。
そして同じ体験をしたくないからそれを避けるか、
過去の体験に付随した感情を再現してしまい、
パニック状態に陥ったりする。


これを塗り替えるには、ひとつは
それを体験しなおすことだと思う。

その体験自体にきちんと向き合って、
離れたところから自分自身を含む全体を観察してみること。

もし理性で抑えてしまった感情や、
言いたかったのに言えなかったことがあるのなら、
きちんと完了させること。


「トラウマだから」というふうに
安易に理由づけして事実を見ないようにしたり、
逆に感情を抑えたりしない。




もちろん、これは難しいことだと思うし、無理なら
「今は無理だ」とわかっていればそれでいいと思う。


時間はかかるものだ。


でも、そのショックな体験を乗り越えることができるとき、
何かを学ぶことができている。


もっとも感情の揺れ動くところに、
気づきや学びのチャンスが眠っているのだと思う。
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