スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
頭で理解することとわかることは違う
頭では意味がわかっても、ほんとうに「わかる」ということにはならないのだということを、韓氏意拳に少し触れただけでもあらためて認識した。
スポンサーサイト
水上から大阪を見る
07-04-30.jpg




今日は知り合いのボートで南港から淀川まで川をさかのぼった。

良い天気だった。



生まれてこのかた、山で育ったので海や川というのは未知の世界だ。

たまにフェリーに乗ったり海水浴や潮干狩りで海へと入ることはあっても、水しぶきを浴びながら波に揺られるという体験はほとんどない。


今日は初めての体験でいっぱいだったのだけれど、
一番は「浮力」というのはスゴイ!という感動だった。

それから、水の上は広いということ。

水の上から見る陸地の汚さ。(水も汚かったけど)

川岸のブルーシートの家の隣で、ピロードームのようなものを作成している若いひとたちもみえた。

はじめは小さな波が、どんどん大きくなっていって、それに乗っかるとボートが大きく飛び跳ねた。

そしてその波のなかから魚がぴょんぴょんはねて、銀色に光っていた。





水上から見ると、人間が建てた建物はほとんど醜い代物で、私の住む社会がどのようなものかよくわかるような気がした。

シロウトと専門家
何か革新的なことをシロウトが思いつくと、
”専門家”はこう言う。
「あいつは、何も知らずにやってるんだから、うまくいくわけがない。無理だね」

でも、Amazon.comをはじめたのは書店とはまったく違う分野の人だった。


専門家は、物事を否定することに関しては天才的だ。

「それはこうこうこういう理由だからダメだ。」
「あれも、こうだから無理にきまっている。」


ではどうすればよいのか、ということを言わない。


そういう人は過去のデータの上にあぐらをかいているだけだ。
マグニチュード8以上地震が起これば、大阪は一体どうなるだろう?

そのような地震が起きないと、誰にわかるだろう?
子供の可能性を阻むもの
いろんなことに興味がある。

なんでそんなに色んなことに興味があるのかとよく訊かれるが、
なんで興味がもてないのか、と逆に不思議に思ってしまう。




すべてのことは重なりあって、また繋がっていて、違うように思えることも実は同じことを別々の視点から見ているか、違う方法によってアプローチしているに過ぎなかったりする。

私にとって何かを学ぶときに、心理学とか科学とか社会学とかいうふうにカテゴライズするすることは不可能に思える。

窮屈だ。



小学校の一年生ぐらいまでは、私はかなり自由に考えることができた。
それなのにそれからの「教育」で、伸びるはずのものが抑制されてしまったと、私は思っている。
ヒトの社会が自由でないのは
ヒトの思考が自由でないことに起因している。
何度も書いているけれど、私は焦っている。

何を焦っているかというと、
自分が自分のしたいことを直感的に知ったのが小学校にあがるまえなのに、いまだに現実において、目に見えるかたちでそれを何ひとつ実践できていないことに対して焦っているのだ。

もう20年もの間、いったい何をしてきたのだろう?


もちろん、考えることはやめなかった。


でも、本気だったか?
私は本気でそのことに取り組んできたか?




私は恥ずかしい。こんな自分が情けない。


私のしたいことをするために大学を辞めたのに、まだ何も実行できていない。




一番の障壁は、自分自身の「現状維持したい」という潜在意識である。


自分自身の意識の劇的な変容(メタモルフォーズ)こそ、世界を変えるより先行すべき課題である。と思う。

気づかないから見えない
最近、ある韓氏意拳を学んでおられる方にきいた。
一瞬のうちに4、5人を打つことのできる剣士の話。

そこでよりわかったようなきがする。
彼は、他の4、5人よりも、「一瞬」が長いのだ。
同じ1秒でも、人によっては長さが異なる。

象の時間と人間の時間と蟻の時間は違う(ように感じられる)のだ。

アインシュタインはそのことを証明したのではなかったか?



ある人が瞬間移動できるのは、それを見ているひとにはその間の彼の動き…プロセスが認識できないからだ。

前の記事で書いた、電気が点いたり消えたり…という話はこのことを直感的に捉える助けになった。




気づいていないから、見えない、わからない。


宇宙においてすべては明らかなのに、私たちにはわからない。
すべての不思議は私たちの無知に起因している。
私の原点 その1
このブログのタイトルにもなっている「腐海プロジェクト」について。
これから徐々にその構想をアップしていきたいと思います。


まず最初に言っておきたいのは、現在の私が今に至るまでの過程についてですが、(これは誰にとってもそうだと思うのですが)今まで関わってきたすべての事柄が私というものを作りあげてきた要素のひとつとしてあげることができるので、いくつかの事柄だけを取り上げて「これこれこういうことが原因で今の私ができました」ということがいえないということです。

つまり、私が今に至る過程というのは、私がいままで生きてきた過程そのものの一時的な結果なのであり、その結果というのも刻一刻と変化している…いまこの瞬間にも私という存在は変容していっているのですから、その過去(いまこの瞬間ですら一瞬の後には過去となる)の過程をすべて説明することは不可能に近いでしょう。



ただ、いくつかの主な要因は挙げることができると思います。


幼いころの体験のなかで忘れられないもののうちひとつは、
保育園の年長組のときの先生の、何気ない一言です。

お昼寝の時間に、先生が蛍光灯を指差して、
「この電気はね、点いているように見えるけれども、実は点いたり消えたりしているのよ」と言ったのです。
私はびっくりしました。
ずーっと点いているように見える電気が、実は点いたり消えたりしているというのはどういうこと!?と。

その先生がなぜそのようなことを言ったのか、どのような意味合いで言ったのかわかりませんが、すでにその当時、科学に興味のあった私は、なんとなくそれがミクロの世界に関わることだと思いました。

それから、小学校の低学年のころには原子というものを知り、どのような物体もミクロの視点で見れば、(バックミンスター・フラーの言葉を借りれば)連続してはいないのだということを直感したのでした。
ですから、私と誰か他のひとの間には、厳密には隔たりとか区別というものはない、というふうに思いました。

電気については、このころ光を粒子だと思っていたので、蛍光灯の端からでた粒子が反対側まで走っていて、それが連続していないから、先生は「点いたり消えたりしている」という表現をしていたのだと解釈していました。



二つ目。
同じ頃ですが、運動会の何日か前に居間の戸口にいたときのことです。

もう長いあいだ運動会の練習をして、あとは本番を待つばかりという日のことです。どうせ当日に行うプログラムの大半は練習でやってしまって体験済みなので、なんとなく想像がつくのに本番があるなんて、なんて面倒臭いのだろうと考えていたとき、居間の壁にかかっていたカレンダーが目に入ったのです。

そういえば、何月の何日に何があるかという大まかな予定は決まっていてある程度予想はつくのに、実際その瞬間になってみなければそのときの体験事態(あらゆる感覚)というのは得られない。ようするに、その瞬間の体験というものは、あらかじめシミュレーションできないその瞬間独特のものだということに、気がついたのでした。

運動会だとか何かの発表会だとか、そういうことを人間は決めることはできるけれど、そのとき、その瞬間に起こる出来事事態は誰にもプログラムできないことなのではないか。いや、もしかしたら神様がそれを決めているのか。だとしたら、これから起こることはすべてあらかじめ決まってしまっているじゃないか。。。大人たちはそのことについて知っているのだろうか??

…結局、私は親にそのことを尋ねませんでした。
なんとなく、それについて誰も答えることができないだろうと思ったのです。だから、そのことは自分の胸のなかだけにしまっておくことにしました。



三つ目。
自宅裏の畑にいるときのこと。
私は土をいじるのが好きで、学校に行かなくてよいときは、いつも祖父母と田畑に行ったり山に入ったり、野原で遊んだりしていました。

必要なものはそろっていたのです。

お金というもの意外は。

先祖代々伝わる土地と家がありながら、そしてほぼ自給自足の生活ができていながら、両親はお金というものが必要なのでサラリーマンになりました。この社会では、ただそこに存在するというだけで、お金を払わなければならないという仕組みがあります。

住民税、固定資産税、etc.


私は幼いころから、これがどうしても納得いかないのです。

なぜ、必要なものはそろっているのに、そこに住むだけでお金を払わなければいけないの?

両親のように、お金を稼ぐために一生あくせく働いて。
これでは家賃や食費のために、貨幣システム(社会システム)に無理やり閉じ込められて、ラットレースのネズミのように働かなくてはならない。家賃のために生きて働いているようなものです。
(働くということが自分の生と一致している場合は違いますが)

なぜ、生きるというこの体験自体のために生きることができないのか?



土地は誰のものでもなく、誰のものでもあります。

ネイティブ・アメリカンのひとたちが云うように、私たちの誰の所有物でもない大地や空気といったものを、どうして売ったり買ったりすることができるでしょうか?

この地球上で、ヒトがはじめて「この土地は私のものだ」と言ったときから、「所有する」ということが当たり前になってしまいました。

(今日では「所有する」というのがあたりまえになり、「共有する」という思想はともすれば安易に「共産主義」と捉えられてしまいます。)


話は変わりますが、もともと物々交換で成り立っていた私たちの社会は、お金というものを発明したことにより大きく変化しました。

お金が誕生することにより、富を保存蓄積する、ということが可能になります。

ここの部分は話せば長くなるし、まだ考えがまとまらないのですが、
まず作物などは腐ってしまいますが、お金は腐りません。

そして需要と供給の関係が1対1でなくてよくなるのです。
より複雑な商売というものが成り立ちます。

…まぁいろいろあります(笑)。

飛躍しますが、今私は、お金というのはエネルギーの保存形態のひとつであると考えているのです。

だけど、一般に云うお金それ自体は意味がありません。


富の定義とは、(フラーがどこかで云っていたかも知れませんが)、明日仕事をやめていつまで生き延びられるかというようなことだと思います。

いくら蓄えがあるかということではないのです。


また、成功の定義とは、朝起きて夜寝るまでに、自分のしたいときにしたいことをして過ごせることだと思います。

別に世にいうお金もちになることや、名声を得ることを成功と呼ぶのではないと思います。



私は、ただ生きる(生を味わう)ために生きたいと思います。

いつものように話にまとまりがないのですが、今日のところはここまで。

テンセグリティ・ワークショップ
今日は京都で、テンセグリティのワークショップに参加。

とにかくすごかった。

参加してよかった。


韓氏意拳も楽しみだー!



というようなことを覚書としてここに残しておきます。
祖父の死と法華経如来寿量品
今年の1月21日に祖父が他界した。

年明けに一度入院して、一時回復したので大阪に戻ってしばらくして再入院したのだが、また九州の病院に駆けつけたときには、もう人工呼吸器がとりつけられていた。

私は、コーマワークについてのわずかな知識があったので、昏睡状態のひとには周囲の人間の話すことが理解できていることを知っていたので、毎日話しかけた(祖父は危篤状態になってから5日ほど留まっていた)。私が話しかけると、祖父の微細な体動を感知して機器がピピピッと鳴るのだった。


最終的に祖父の血圧はどんどん下がり、そのまま消え入るようになくなったのだけれど、遺体が実家へ帰ってきたときはまだ温かくて、なんだか眠っているように見えた。



祖父は熱心なに法華経を持っていたので、私も幼いころから仏教とりわけ法華経について学ぶ機会(チャンス)を得ていた。

けれども、私はほかの色んなものに興味関心がありすぎ、また思考するのがすきだったので、法華経と本当の意味で出会うことが今の今までなかったと思う。



それが、葬儀のときに久しぶりに法華経の経をとなえているうちに何かがこころに触れて、涙が流れてきた。

さっきまで生きて話していた人が話すことはおろか呼吸をしなくなり、肉体が腐り始めるという不思議。
もしくは、あるときひとりの人間が命を得るという不思議。

人間は、ひとつの細胞、すなわちひとつのいのちをも
生むことはできない、という不思議。



祖父が急逝したせいで、私は法華経の(言葉上の)意味を理解しようとして現代語訳を読んでみた。

するとどうだろう。

いつもいつもあげていた経(如来寿量品)では、釈尊(ブッダ)によってある医者の喩え話が語られていた。
(うろ覚えです)
ある良薬をつくることのできる医者が遠くへ出かけていた。
この医者には子供がたくさんいたのだが、それぞれ病気を煩っていた。
そこへ父である医者が帰宅し、よい香りと味のする薬を与えた。
すると、何人かの息子たちは父の帰宅を喜び、素直にそれを飲んだのですぐに快癒した。
しかし何人かの息子たちは、父の帰宅を喜びはしたが、それを飲まなかった。

父は、自分の帰宅を喜ぶ息子たちのことを想い、なんとか治してやろうと一計を案じた。
どうしたかというと、また遠くへ出かけて、その先から父は死んだとその息子たちに知らせたのだ。

すると薬を飲まなかった息子たちは、自分たちのことをよく擁護してくれた父のことを想い、嘆いてこの薬を飲み、そして快癒したのだ。


私にとって祖父の死はこのようなものだったともいえるのだ、つまり
祖父の死がきっかけで、その祖父の持(たも)っていた法華経とはどのようなものだったのかということに興味をもち、それに触れて驚き、喜ぶという体験ができたからだ。


ほんとうに不思議だなぁ。

人間の頭ではわからないことがある。

仏にしかわからないありがたい教えがあるということを説くのが、
この法華経という経なのだ。
正直に生きたい
苦しいなと思ったら
じぶんのきもちに
すっかり素直になってしまうといい

自分のこころを騙してまで
生きていけるほど
(私は)我慢強くない

こころで納得していないのに
頭で納得しようとしてしまうから
ズレが生じてしまうのだ

というよりか
じぶんが<ほんとうには>
何を求めているのか
わからないか
見失ってしまっているときがあるから

そういうときは
苦しくなってしまうのだろう



自分を苦しくさせているのは
いつも自分自身だった




こころの荷物は少ないほうがいい
できるだけ身軽なほうがいい

背負っているものを
地面に下ろして
歩けばいいものを

あれもこれもと
身につけていこうとするから
大変なのだ


…と
こころでわかって
実践できるようになりますように


まずは次の一歩から







ああ、今日はたのしかった


ほんとうに
たのしかった






Copyright © 腐海プロジェクト2005-2008. all rights reserved.
Design by Pixel映画山脈

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。