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シガー・ロス(勝利の薔薇)
Sigur Ros(シガー・ロス=アイスランド語で"勝利の薔薇”)
をもうずっと聴いている。

mum(ムーム)とかビョークとか、
アイスランドのミュージシャンが好きだ。


シガー・ロスのtakk(ありがとう)は毎日聴いてる。
アイスランド語だし、造語で歌ってたりするし、
邦訳がないので何と言っているのかわからないけれど、
伝わってくるものがすごく好きだ。

興味があるひとは↓で視聴してみてください。



http://www.sigur-ros.co.uk/

http://www.toshiba-emi.co.jp/intl/special/0509sigurros/

http://asag.exblog.jp/i1



Takk... Takk...
Sigur Ros (2005/09/12)
Emi

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トンネルを抜けるとそこは草原だった。
生きていると、辛い時期というのを経験したりする。


そうかと思えば、こんなに幸せでいいの?という時期もある。





その繰り返しだ。


過ぎ去る。






センターを自分の奥底にもつこと
自分の生を生きるということ
今日、大学に退学届けの書類をもらいに行ってきた。


こころの本当に赴くほうへ行けばいい。



幼いころから変わらず私のなかにあるものを
大事に大事にしたい




今までどうして退学を決断できなかったかというと

大学を卒業してほしいという母の想いを大事にしたかったから
プロセスワーカーになりたいと思ったから


だけどそれは本当の想いとは違っていたようだ


こころの赴くままに進めばいい



どんな資格も肩書きもいらない

私が私であればいい
わたしがほんとうに
わたしをわたしたらしめているものに合致しているとき

私の心は凪いで
しかも輝き
ちからに溢れ
悠然としている
自分で自分を雁字搦めにしている。

そのことに気がついた。
私という仮の姿に宿るもの
その深いところを感じる


私のこころは行動に現れる

私の迷いは行動にあらわれる



迷いの根源をみつめて

根元から絶て
エッジ(こころの障壁)を越えて
何かをしようとするときに
壁にぶつかることがある


そこに壁があることに気がつかなかったり
その壁がなぜ生まれているのか気づくのは
とても難しい
その壁を乗り越えるのはもっと難しい


たとえば

誰かに本心を伝えたいときにも
「相手に嫌われたらどうしよう
怒らせてしまったらどうしよう」とか
「恥ずかしい」とか
色んな感情がその気持ちを言うことを阻ませる

それはとても大切なことで

その感情の裏には
相手を好きという気持ちだとか
自分のとても大事なものとかがある


そういうものがあるということを見て
もしそのエッジを越えることができたなら
そこには新しい地平が広がっている



そうやって少しずつ
こころは成長していく

相手との関係も変わっていく
目の前のせかいが変わっていく



数々のエッジを乗り越えて

話を聞くということがどんなに大切か
ということを、繰り返して書きたいと思う。


私の実際の体験から、誰かと話をするとき大切だと思うこと。

・誰かが話しているのに途中で割り込まない。
→途中で、なんとなく話者の言っていることがわかったとしても、とりあえずその人が一呼吸置くまで、黙って聞いてみること。


・誰かが何か言ったら、それをいったん受け止める。
→「そうなんですか」「そうでしたか」「なるほど」…
相手が「聞いてもらった」と思えるように、受け止めること。
そうじゃないと、相手はますます話し続けることになる。


・わかったふりをしない。自分の賢さをアピールしない。
→誰かの話を聞いて、自分は「そんなことわかってるわよ」という気持ちが少しでもあると、途端に相手の話を聞かなくなる。
そして、相手に見下しているイメージを与える。
わかった気持ちになっているうちは、何もわかっていない。


・「でも」「だけど」という言葉をできるだけ使わない。
→「…そうだね、“でも”○○でしょ」と言うとき、この「そうだね」というのは偽物だ。



・話すときは、場の準備がととのうまで、待つこと。
→自然に、場が場に耳を傾ける雰囲気になるまで、待つこと。熟するまで。


・話すときは、格好つけないで話す。
→自分が本当に感じていることが他人からどう評価されるかを気にして、あれこれ操作すればするほど、言葉は真実から離れていく。
もちろん、それを言って相手がどう受け止めるかについて全く考えないのもよくないと思うけど。そういう場合には「こういう風に言ったら、あなたを傷つけてしまうかもしれなくて怖いけど…」と前ふりをする。


・話している自分を観察している自分がいること。
→話している自分を、俯瞰している自分がいるといい。


・話上手は聞き上手
→そのまま



…あと、何だろう。
忘れた。
思い出したとき、気づいたときにまた付け足しておきます。


まーーーー、私もできてないなー。
焦燥感
最近、ちゃんとネイティブアメリカンの本を読むようになって、私のなかの焦りがどんどん大きくなっていっている。

焦りというか、武者震いというか、なんかそんなものだ。


「あぁ、やっぱりこの道でよかったんだ!」


子どものころからの夢を早く実行に移したくてうずうずしている。

ただ、慎重に歩んだほうがいい。
私はいつもそうだから。
感情だけでは上手くいかない。


落ち着け。
落ち着くんだ。




昨年の夏、ワーク中に現れたビジョンは、
岩盤の窪みの火の前に座る、一人のネイティブアメリカンだった。
彼のかおには皺が刻まれていて、その目がじっと私を見ている。
何もいわずに。薪もないのに火が燃えている。煙も出さずに。

それを見た瞬間、「私はこの人を知っている」と思った。
それから「もう会えない」と言って泣いた。

(なぜアフリカの人じゃなかったんだろう?なんて思ってたんだけど、まぁそれはいいとして)
その人の目を見た瞬間から中心が戻ってきたんだ。


うん。
最近、それがなぜだかよくわかる。
そう、それは既に幼いころからそうだったんだ。

それがわかってうれしい。




虹の戦士 虹の戦士
北山 耕平、William Willoya 他 (1999/09)
太田出版

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信じる未来、現実になる未来
未来の自分の姿がみえる。

未来の私の家族とその暮らしがみえる。

深い森に囲まれた、むせ返るような自然の香のただようなかで
子どもを抱いた私と、傍らに夫がいる。

友人たち(生きものたち)が訪ねてきて、幸せな時を過ごす。


そこにある笑顔と愛とやさしさに
胸がいっぱいになる。




私にはひとつの未来しかない。

幸せな未来。
最近、気持ちが動揺したときに
立て直すことが容易になってきた。


どうやら、中心があると
揺らぎにくくなるらしい。


中心を忘れたときに
私は揺れている。

今までは、ちょっとしたことにもぐらついていたのだけれど
自分の中心が定まってきてからは、それを思い出すだけで
回復するようになった。



歳をとった私が見える。
幸せな私の姿が見える。

とてもいい表情をした友人たちが
周りにいるのが見える。



ありがとう。

夢だけど夢じゃない
一昨日、明け方に夢を見た。

圧倒的なリアルさ。
胸の痛み。涙。

もう完全に乗り越えたと思っていたことが
ぜんぜん乗り越えられていなかったとわかった。


夢に首根っこをつかまれて
「ホラ、本当のお前の気持ちはまだこうなのよ!しっかり見なさい!」と
否が応なく見せつけられ、納得した。


不安に思いながらも心の隅へ隅へと追いやっていたものたちが、夢となって私に呼びかける。


期待している自分。
わずかなことにもすぐ気が付く敏感さと
そこから芽生える恐怖。疑心暗鬼。
「あぁ、やっぱり。私の直感は正しかったのか」と
失望する自分。その裏にさらに見え隠れする過去の傷。
恐怖を生み出しているもの。




「夢でよかった」?
ちょっと待てよ、全然よくない。

夢だけど夢じゃない。

それは私にとっての、現実にそこにある問題なのだ。



こころに染みついてしまっているなにか。
魂の習慣。


私はこの夢が教えてくれたことと向き合わない限り、
この魂の習慣を改めることができない。
ひとりあること
ほんとうにひとを愛するには
まず自分がひとりであれること


自分に足りない部分を誰かが補ってくれることを求めているうちは
相手に依存してしまう





The Missing Piece Meets the Big O The Missing Piece Meets the Big O
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今朝、祖母から電話があって
祖父が入院したことを知った。

私が生まれた年に危篤になり
「今夜が山場です」
といわれた祖父は見事に復活を遂げ
それから20年以上生き続けてきた。

幼いころの私は両親が共働きだったので
祖父母に育てられた。



幼いころは、祖父のしつけが厳しくて
いつも喧嘩ばかりしていたような気がするけど
歳を重ねるほどに丸くなり、
赤ん坊のように笑うようになった。


その祖父が、救急車で運ばれ入院した。


入院先の病院には従姉妹のお姉さんが看護婦として働いている。
幸い、術後の経過は極めて順調とのことで、もう病室を歩き回っているそうだ。よかった。


なんだか、祖父母はもうそういう歳なんだなぁと
今更ながら気づかされた出来事だった。
失うものは本当のところなにもない
あれこれ思い悩むのは、心から安心できていないからだと思う。


どうすれば安心できるかというと、
自分の心身は「何か」に委ねられているのだということを
頭ではなくこころで感じることだ。


自分の行いや想いのひとつひとつが、
そうした「何か」によって引き起こされているのだと
知ることだ。
どんなにちっぽけに思えることでも。



だいじょうぶ。

何も心配することはいらない。




もともと、何もなかった。

いのちだけ戴いて生まれてきた。

何を失っても、いのち以外に失うものは何もない。

しかも、そのいのちというのは、
死んだとしても、かたちを変えて続いていくものだと思っている。


だから、心配することはいらない。

一瞬一瞬を楽しむことだ。




失うものなんて、ほんとうは何もないんだから。





<私自身へ>
戒めよ。
脳死患者からの臓器移植について
大学入試の論文の問題が
「脳死は人の死か?」だった。

そのとき私は
「生きているということがどういうことなのか定義することができないから、脳死が人の死かどうかわからない」
というようなことを書いたと思う。




あれから6年が経って、この問いに対する私の考え方もだいぶ変わってきたと思う。




今なら
「脳死患者からの臓器移植に対しては反対」
だと云う。


理由は
・脳死患者はまだ生きているから
・臓器移植をしてまで、生きる必要はないと思うから
暗闇のなかにいるひとへ
私は昨年の秋から4月くらいまでの間、
ほんとうに深い谷底の暗闇を彷徨いました。

それは、心が生み出した暗闇で
そのことは頭ではわかっていたのですが、
こころはそうはいきません。

生きていることが苦しく、
でも死ぬことによっても解決できない
そんな場にいて、のた打ち回っていました。




ほんと、そういうときって、
どうしたらいいのかわからないんです。


何度も死のうとしました。

包丁をみぞおちにあてて何時間もじっとしていたり、睡眠薬を飲んだり、絶食したり。。。



でも、そこで私が見たのは、「ファンタジーの主人公を演じている自分」でした。

私が演じようとしていたのは、「苦しみと悲しみを経験し、死の底から甦るヒーロー(ヒロイン)」「社会のピラミッドをひっくりかえす革命者」。
だから、私は自殺の危機というものを乗り越えることを必要としていたのだと思います。
心のどこかでは冷静に自分を観察している自己がいて、本気で死のうとは思っていなかったし、仮に身を傷つけたとしても絶対に死なないか、死んだとしても死ななかったとしても、天が必要な結果がもたらされるだろうと思っていました。



いま、たのしんでいる私がいるのは、このときの苦しい期間があったからこそです。
あのことがあったからこそ、友人や家族、親戚などとのつながりや彼らから愛されているのだということ、自分のなかのエッセンスが何であるのかを確認することができ、「ではどうするのか?」という次の一歩を踏み出せました。


苦しみや悲しみは人それぞれで、他人のそれと比べることはできませんが、少なくとも苦しみを経験すればするほど、他人の痛みへの想像力のようなものは高まるのかなという気がします。それを武器にすることはしませんが。




もっと整理して書きたいのですが時間がないので今日はここまで。
持たないひとたち
お世話になっている建築写真家さんとインド料理屋で食事をする。

2人とも、日中ほとんど何も食していなかったので、スパイスの効いた(といっても効きすぎてはいない)サラダやサモサ(野菜とヨーグルトのディップがこれまたおいしい!)、タンドリーチキンなどをいただく。

ほんとうにおいしくて、身体が喜んでいるのがよくわかる。



その後、彼女のお宅へ泊まったのだけれど、お宅にはほとんどモノがない!バスルームがガラス張りで、とても明るい!

で、とても深い眠りに落ちました。


「暮らす」ということについて
建築関係の方々と、ここ4,5年関わってきましたが、最近ほんとうに建築は面白いなぁと思う。そんな夜でした。

たいせつなものは手段ではない
と思う。


たとえば、山の頂上へ行くまでには本当にさまざまな道があるだろう。

しかしそれがどんな道(way,approach=方法)でもいいのだ。
そこにこだわる必要はない。

頂上についてしまえば、同じことだ。




いつか頂上にたどり着いたとしたら、自分が頂上にたどり着こうと欲したことも、自分が頂上にいることも忘れるだろう。


そして、そのうち山を降りるだろう。


どこにいても、頂上にいることができるから。










<覚え書き>
考えることをつきつめていった後は、それを落とすことにしよう。
「考えない」ということさえ考えてもいないように。それまでに。
何かの道へ踏み込むときに
はじめからうまくいきすぎると
後でうまくいかなくなるそうです。
幼いころに聞いたはなし
天国では、食べるときにとても長いお箸をつかいます。
(この時点でアジアの思想だということがわかるんだけど)


お箸がとても長いので、天国に住むひとは、何かを食べたいときにはまずほかのひとに食べさせるのだそうです。

すると、そのひとが今度は、自分にものを食べさせてくれるそうです。



そんな話をずっと忘れられずにいます。
対(?)の法則
欲しいと思ったらまず与える。
(得たいと思ったらまず手放す。)

伸ばしたいと思ったらまず縮める。

持たないということについて
昨年から、「持たない」「“所有”しない」ということが自分にしっくりくるようになってきた。

子供のころにはそうだったのに、いつの頃からか「持っていなければ不安になる」ようになった。その最たるものが「知識」だった。




ところがここ半年のあいだに、ほんとうに「持っている」ということがどういうことなのか、だんだんわかってきたような気がする。


本当に何かを身につけるということは、すべてを落とすということだ。
(というこの言葉も充分で不充分なのだ!)

何も持っていないけれども、持っている。

「自分のもの」がないと、こころがとても楽になる。
最近、そんな心もちでいる。



自分のものはみんなのもので、みんなのものは自分のものでもあるんだ。
というか、自分はみんなでみんなは自分でもある。
あるとき、ある意味、ある部分において。

なーんて。



言葉遊びになってしまうので、ここらへんでやめておきます。
信用・信頼
信用・信頼というものは、あっという間に失われることがある。

自分の成すことに責任をもてないひとのことを、他人は信用しない。
(ここでいう責任という言葉の意味は、自分がしたことによって引き起こされたことを引き受けるということ)
自分の売るものに自信のないセールスマンから、商品を買いたいと思う顧客はいない。



私は書店で働いてきて、お客さんに「高い本を買わせよう」と思ったことはほとんどない。
ただ本を売っているのではなく、もっと「かたちのないもの」を売っているのだ。
それは、自分にとってもお客さんにとってもプラスとなる結果をもたらす。

私は、本を販売するということに関しては、もっともっと質のよいサービス「本も商品だが、書店にとっては、実はこれが本当の「商品」である)を提供したいと思うので、いつもこの仕事にかけては上へ上へと努力しているつもりだ。
もちろん、失敗もあるけれど、いましているこの仕事が、自分のほんとうに大事だと思うものに繋がっているから、自信を持ってやれる。

もし私が、書店員という仕事をただのバイトだという気持ちでやっているなら、それはお客さんに確実に伝わってしまうだろう。



同じ志をもった者同士は、自然に引き寄せ合うものだ。
断言できるものはないと思う
すべてのものごとは断言することができないだろう。

すべては、言葉で表現しようとすれば、矛盾してしまうからだ。
しかしこれは言葉が間違っているからではなく、
言葉の持っている性質がそうさせるのだと思う。



言葉は、あるとき、ある条件のなかでだけに限定されて用いられる。

「それ自体」は言葉では決して表現できないから、言葉はその周りをとりかこんで、「それ」がそこにあることを示す。

すでに「それ」を知る二者のあいだにおいては、なんという表現を使おうが、「それ」は阿吽の呼吸で伝わるのに、そうでないもの同士の間では、言葉はちぐはぐなやりとりを繰り返す。



あらゆることは言葉のうえでは矛盾するのだが、実際には矛盾していない。

あるひとつのものごとは、相反する性質を、本質的に含んでいる。
いろいろに「見える」だけだろう。
東京、大阪、熊本
東京。

とあるセミナーを受けに行ったんだけど、久々の東京はなんだか今までと違って感じた。

何が一番違っていたかというと、妙に親近感を感じたこと。

特に電車に乗っていて、周りのひとたちの顔の骨格というか、感じが、関西人より自分に近いと思った。
これはあくまで自分の主観だし、東京には全国各地から人々が集まってくるのだから「関東の人」というふうに一括りにはできないのだけれど、その顔に顕れている何かが自分に近いと思った。

あと、高校や大学に入学したてのころと違って、東京の人ごみ(人の流れ)にさほど恐怖を感じなくなったこともあると思う。

なんだかしらないが、つまりはわたしが何か変わったということだろう。



大阪
大学に入学してから大阪に住んで7年目だけれど、大阪は私にとって何だろう?

何かぬるさを感じるようになってきた。
なんだろう?



熊本
もうだいぶ地元に帰ってない。
仲の良い友達のほとんどは、熊本にいる。
そこで仕事に就いている。

熊本は懐かしいけど。

…けど?




私の故郷はどこだろう?
そこは場所として存在するのだろうか?


私の中のなにかが、やっぱりここで疑問符を発する。



「私はきっと、どこにいてもいいんだろうな。」

と思ったりする。
『24時間の明晰夢』新装版増刷
東京青山一丁目のブッククラブ回へ行ったら、『24時間の明晰夢』を売っていた。おー、やっと増刷か。そしてやっと日本語訳読める(ほっ)。


24時間の明晰夢―夢見と覚醒の心理学 24時間の明晰夢―夢見と覚醒の心理学
アーノルド ミンデル (2006/05)
春秋社

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あ、それで実は昨日東京に行っていたのだけれど、その前に『武学探究巻之二』と、この本を買っていった。


出現する未来 出現する未来
野中 郁次郎、高遠 裕子 他 (2006/05/30)
講談社

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『学習する組織』という前著で有名なピーター・センゲらの共著。
これはプロセスワークとリンクするような気がして。

『武学探究巻之二』はとても面白いです。
最近、ワーク中によく「身体意識を高めたい」というのが出てくるので、もうそろそろやる時期かな。




武学探究 (巻之2) 武学探究 (巻之2)
光岡 英稔、甲野 善紀 他 (2006/05)
冬弓舎

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…って、この記事「プロセスワーク」のほうに書くべきだったかな?
まぁいいや。

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