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いつも期待以上のことをするということ
前にも書いたけど、

持っているものしか与えることはできない
のならば
多くを与えることのできるひとは、それだけ多くを持っている
ということじゃないかと思う。
(「与える」という表現はちょっと抵抗があるけど)

お金やモノというだけのことではなく。



私がアルバイトをしているときにいつも心がけているのは、
お客さんが期待している以上のものを提供する、ということ。
これくらいでいいかな、と妥協しないこと。
(基本ができてないこともまだまだあるのでそれが先だけど)


お客さんは、期待したもの以上のサービスを受けると、喜ぶ。
そして、また利用しようという気になる。
それが結果的に売り上げの伸びとなって表われてくる。
私も、お客さんが喜んでくれると嬉しい。
もっともっと、上質のサービスをしたくなる。


自分で自分の能力を限定しない。まだ眠っている未知なるものが確実にある。


間違いや勘違い、行き届かないことというのは常にある。
でも、やってみないとわからない。
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尊敬する日本の企業人
そういえば、前回の記事が100件目でした。
よく書いてるなぁー。
内容はともかく、書くことは好きです。


さて、今日は私の尊敬する企業人(?)のお話を。
日本には、素晴らしい企業人がたくさんいるわけだけど、その中でも私がずっと注目してきたのが、ソフトバンクの孫正義(そんまさよし)さんだ。


志高く 孫正義正伝 志高く 孫正義正伝
井上 篤夫 (2004/05)
実業之日本社

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この本を読んで、ますます好きになった。
(お勧めです)


孫さんは、いつも遠くを見据えている。
利益をあげることが最終的な目的ではないから、いつも澄んだ目をしている。

いつも夢と希望に目を輝かせて、仕事を楽しんでいる。
もちろん、見えないところでは大変なことも本当にたくさんあるだろう。怒りや哀しみを感じてもいるだろう。



この間、vodafoneの買収のニュースを聞いたときに、とても嬉しかった。私はvodafoneのユーザーだから。docomoはあんまり好きではない。
日本政府という後ろ盾を持って、我が物顔でやってきたように思えるから。孫さんは政府の不当と思われる圧力や制限と真っ向から闘っている。そこが好きだ。

ヤマト運輸もそうだ。


つづく
誰かの言葉・自分の言葉
ときどき「あなた自身の言葉で」という表現を耳にする。
「神の声」とか「啓示」という言葉も。


私はこれらの言葉にとても敏感に反応してしまう。
何かに敏感に反応する、ということは、その裏に何かがあるということだと思う。

私が最初に挙げたいくつかの言葉が気になることの裏には、自分が今喋ったり考えたりするときに使っている言葉は、もともと誰かほかのひとのものだったというふうに考えているからだと思う。

生まれたときから、周りの人間の言葉を聴き、表現を聴き、話を聴き、そしてそれを自分のものとしてアレンジしながら使っている。もともとは、誰かほかのひとが発した言葉を自分のなかに取り込んで、忘れてしまう。忘れてしまうんだけど、それは確実にそのひとの一部となってそこにある。
食べ物を食べたあと、意識しなくても勝手に血や肉となるのと同じように。

そして、あるときそれらが化学反応のように結びつき、あるかたちをなして現れてくる。




それから、私は「神の声」とか「啓示」という言葉からは、その言葉がどこか天から振ってきたような感じを受けるので、あまり好きではないのだなぁと思う。

私は、前にも書いたように、宗教や信仰といったものに関してとても敏感で、いつも少し離れている。
でも、それと言葉にはできないけど感じる「何か」というものをもっていて、それを自分の「”宗教”以前の宗教」というか……そういうふうに思っている。

目にみえないものを信じないわけではない。

でも、どこか「神」とか「啓示」という言葉にこだわってしまうのは、そこに何か壁があるのかなと思う。


たぶん、恐れがある。


誰かの言うことを、鵜呑みにしてしまうようなことに対する・・・?
自分自身が感じることをどこかに追いやってしまうような強力な何かがそこにはあるような気がする。

たぶん、宗教家とか教祖(宗教に限らず権威とされているひとたち)のいうことを何でも信じてしまうことが怖いのだと思う。


言葉は、どこからかやってくるように「感じる」かも知れないが、確実に自分のなかから湧いてきているような気がするのは、私だけだろうか?
どうしてその言葉がそのとき想い浮かんだのか、ということはわからないけれど。それは、それこそ何か見えないもののちからとか囁きといってよいのかもしれないと思う。



何か、想いつくままに書いてみましたが、この言葉も、いまこの瞬間のわたしにとっての言葉で、私に限定された意味での言葉たちだと思います。
だから、これを読むひとそれぞれ、受け取りかたが違うわけ。
そして、この言葉たちが、またこれを読んでくれているひとの心に、かたちを変えて移っていくんでしょう。

今朝は大寝坊してしまった。


そして、今朝みた夢が何だったのが思い返してみる。

何やら、夢の中でも同じ映像(内戦)を繰り返していた。
あと、気球がはじける夢。


ふぅーーーーん。




それから、昨日の記事と、ある友人とのメールのやり取りについて考えている自分がいる。

すると「比べる必要はない」という声がきこえてくる。

あぁ、そうだった。



それから「中心が定まる」という体験をする。


比べる必要はない。
誰かの評価を自分が尊いということの指標にする必要はない。
もし中心が定まっていれば。
でも、それは耳をふさぐことではない。



鳥のさえずりを聴く。
暖かい空気を感じる。
晴れた空を見る。
おいしい食べ物を食べる。
深呼吸する。
雨で湿った土の匂いがする。
近所のおじさんとおばさんの挨拶が聞こえてくる。
友人からのメールを読む。
別の友人から電話がかかってくる。


あぁ、私はせかいにつつまれてるんだなぁ。



ひとりでいても、誰かといても、満ち足りている。
初対面のひととのコミュニケーション
人に云われて初めて自分のことに気付くことは多い。

友人に云われてからしばしば振り返ってみてきたんだけど、どうやら確かに、初めて会うひととそれなりに打ち解けることが、そんなに苦労せずにできるらしい。
しかも、何語を話そうが関係ない。

うーーーーーーーーーーーーん。。。。。
何でだろう?
何をしてるんだろう?


自分がどうしているのかを振り返ってみた。


・笑顔。
・初めて会うひとだけど、あんまり「他人」って思わない。
・話し掛けることに抵抗感がない。
・言葉が通じなくても、相手の意図が何となくわかる。
 (表情とか、声のトーンとか、身ぶり手ぶりとか。絵を描いたりして)
・自分のことを先に話して、警戒を解いてもらう。
・相手との共通点を探す。
・相手を褒める。こころから褒める。
・相手の相談にのる。手を貸せることだったら即座に手伝う。


今思いつくのはこのくらいかな。
あんまり「他人」って思わないってことがいちばん大きいかな。
なれなれしいかもしれないけど。

壁があると思うと壁ができるように思います。
自分が開いてなかったら、相手も開いてくれない。

でも、初対面のときはうまくいくんだけど、付きあいが長くなればなるほど、いろいろと閉じてしまう傾向にあるので、今その習慣をあらためようと努力中。




*このあいだのワールドワークの、友人たちのレポートを読むと、英語にひっかかった人が多いみたいだ。

私は外大で外国語を勉強してるわけだけど、英語はもうかれこれ6年以上やってない。
でも、このあいだぽーんとアメリカに飛んだときには、それほど不自由しなかった。

あんまり言語に頼ってなかったからか、それなりに英語の基礎があったからか、よくわからないけど、正確にではなく、おおまかな意味だけつかんでればどうにかなったように思う。

あとは、「私は外国人だ」って思わなかったこと。
そうだ、それだ!
知らないうちに、「ポートランドに住んでるひと」になりきってた。
郷に入らば、郷に従え?



なりきることに抵抗を感じないみたいです。
カメレオンか水みたい。

なるほどね。
自分で納得。

歓びを味わうことについて
歓びを味わうことは自然なことだと思う。


「歓び」と「快楽」とは別のものだと私は思っている。


快楽は人を溺れさせる。

しかし歓びは人を高みへと引き上げる。





わかりやすいのは、セックスだ。

快感を追い求めることか、
相手との愛を深めることや男女(陰陽)の合一か。


自然に無駄なものはない。



人間は、肉体をもった存在だ。
人間は肉体以上の存在であるかもしれないが、それは肉体を否定することにはならない。


私は、「脳」や「魂」に傾くことは、危険だと思う。
物質だけでも、精神だけでもなく、その間のバランス。
陰陽のバランス。

どちらかが極まれば、自然はバランスをとろうと対極の方向へと動く。
その繰り返し。



しかし忘れてはならないのは、陰陽という二極は、実はひとつなのだということ

どちらかだけではこの世は成り立たない。

他人の話を聞かないひと
他人の話を聞かないひとがいる。
私もかつてはそうだったし、今ではだいぶましになったとはいえ、まだ若干その傾向が残っている。


・自分がいつも一番正しい(自分は間違わない)。
・自分は何でもよくわかっている。優れている。
・他人の話には得るものがない。


自分が誰よりも優(まさ)っていると気持ちがこころのどこかにあると、高慢になる。
そしてその高慢さは、行動や言動に現れたり見えない威圧感となって、周囲に伝わる。
周囲の人々は、その人を崇拝するか、もしくは離れていく。


高慢なひとは、自らを閉ざしていく。

相手の話を聞く前からわかっていると思い込む。

誰も声も聞かず、自分の声だけを聞く。



こうなると、そのひとが失敗する(行き詰まる)か自分自身で気づきを得るまで、待つしかない。





自分を尊い存在だと思うことと、他人より優れた存在だと思うことは違う。
そこには比較のこころがある。
比べることがなければ、他人も尊い存在だということがわかるし、誰も劣ってはいないということもわかる。

いつも周囲と自分とを、自身の物差しで比べているひとは、こころ休まることがない。
常に他人より優れていようとするからだ。


そしてこのことは、劣等感を抱くひとについても云える。
彼(女)は、いつも人と比べて劣っているように感じている。
そして、卑屈になったりする。


周りの評価もまた、劣等感や優越感を強化する材料になることがある。




それぞれが尊い。

それは比べることができない。
想いが、引き寄せる
最近、自分がこころの中で求めたものが向こうからやってくる、という体験をよくする。
いや、今までもそうだったに違いないんだけれど。



「求めよ、さらば与えられん」
「思考は現実化する」


人は常に自分のこころに種を蒔いているのだ。
そして、そこから収穫を得る。


自然だ。

すべてははじめからあきらか
なにもかくされてはいない



ただ

みえていないだけ






みようとしてめをこらせば

みえない






みることをわすれる

かんがえることをわすれる

しようとすることをわすれる





すると

すべてがあきらかであることにきづく
宗教と信仰
私は、ある新興宗教に入信している家庭に生まれたので、ものごころついた時にはもうその宗教を信仰するようにしつけられていました。

云われるままに勤行をし、座談会に出席し、仏教関係の本を読みました。
大人たちは、何時間も正座をして勤行をすることを褒め、そのころ遺憾なく発揮されていた私の様々な才能は、すべてそのおかげだと言っていました。

他の宗教は謗法(ほうぼう)で、それを信じている人たちはいずれか地獄に落ちると聞かされ、他の宗教に関係のあること(初詣、地蔵祭り、クリスマス、地元の神楽保存会への参加等々)に関わってはいけない、もし仕方なくその場にいっても決して拝んだりしてはいけない、というようなことを云われていたのです。


でも小学校にあがって間もないころ、そのことを疑問に感じはじめました。


どうして、他の宗教のひとたちのことを地獄に落ちるだの何だの云うんだろう?
どうして、一生懸命に信仰しているわりにうちの家族はいつも幸せじゃないんだろう?
どうして、私はこの宗教を信仰しなくてはいけないんだろう?



既にいろいろな書籍を読むようになっていた私は、他の宗教の本も読むようになっていました。それは、純粋な興味からそうしていたんです。
でもあるとき、友達からこっそり借りて『新約聖書』を読んでいたら、祖父に見つかってしまってこっぴどく叱られてしまいました。
「謗法だ!」
祖父の気持ちはよくわかります。私に幸せになってもらいたいという気持ちは。
でもそのころ既に、私は「宗教」を必要としていないということに、気付いていました。



それからは、家族の中で私だけが異端児でした。
どれだけそのことで口論したかわかりません。
家族と私との間には隔たりがあり、その隔たりをつくり出していたのが「信仰」でした。
その「信仰」というのは、「教祖への信仰」「教団への信仰」です。

幼いころより、仏典を学べるというのはとても良かったと思います。
ブッダの教えには、いつも驚いていました。
ただ、それとこの宗教団体というものの間には、大きな溝がある。
「教義」を学ぶことと、この団体や教祖を崇拝することは違う、と思ったのです。

だから、私はそこから離れていることにしました。


家族はそんな私を批判しましたが、その宗教団体の集まりに参加するよりも、森や野原や畑をぶらぶらしていることの方がよっぽど好きでした。
自然の中にいると、いつもいろんなことが自分のなかに浮かんできました。
ひとりですので、歌うことも自然に話し掛けること(周りから見れば独り言)も踊ることもできました。とても多くのことを学んだと思います。
泣きたいときも、うきうきしているときも、ひとりで森や林や野原に出かけていっては、友達(樹や草や太陽や月、鳥、雲など)に伝えました。


今思うと、そうすることによって沢山のことを得るとともに、人とコミュニケーションをとる機会を失ってもいたのだと思います。


高校の受験勉強のときに、父に「お前は勤行をしないから、きっと落ちるぞ」と言われました。
でも、私は合格しました。
合格して独り暮らしを始める前に、「偉いひと」が来て「あなたがこれまで上手くやれたのは、前世の徳のお陰だけれど、これからはそうもいくまい」と仰いました。

このひとたちは一体、私に幸のしあわせを願っているのか?それとも不幸を願っているのか?



話は変わりますが、私はそれぞれの宗教の良いところは自分の信仰の源にしています。
この「信仰」というのは、宗教を信仰するという意味での信仰ではありません。
「宗教以前」といったらいいのかな?




宗教については、もっともっと思うことがありますが、今日はもう寝なくては。
また書きます。
今日は人生最後の日
『今日は残りの人生最初の日』(ロビン・シーガー/サンマーク出版)という本があります。ちょっとタイトルをお借りして、今日はこんな言葉を書きたいと思います。


「今日は人生最後の日」



人は、選択肢が多ければ多いほど、そのどれも選べない傾向があるようです。

そして、決定を先延ばしすればするほど、決断しにくくなるようです。

どんなことであれ、それをするために与えられた時間が長ければ長いほど、一度も手をつけずに終わることが多いということです。

それが困難やある程度の犠牲をもたらすことならなおさらです。




子どもの頃の、夏休みの宿題を思い出してみてください。
夏休みが始まった頃は、余裕ですね。まだまだ時間はあります。
それで、半分を過ぎたころからちょっと気になり始めます。
「そろそろやらないとなぁ……」
で、計画表をつくってみたりするんですが、なかなか目先の欲望(遊び)に勝てないで、結局あと一週間!というときにようやく必死になってやり始める。。。

もちろん、夏休みが始まってすぐに終わらせたり、きちんと計画通りにできていた人もいるでしょう。

でも、こうした体験をしたことのある人は結構多いのではないでしょうか?
そして同じことを、大人になっても違ったかたちで体験しています。





しばしば、私たちは「いつかは」「そのうち」と言ったりします。
では、その「いつか」というのは、いつのことでしょう?

今していることが終わったら?
準備が整ったら?
人生はまだまだあるから……と思っていたら(それを実行する日はたくさん残されていると思ううちに)、あっという間に墓の中です。




それでは、今日があなたの人生で最後の日だとしたら、あなたはどんなふうに過ごすでしょう?
明日があるから……と思っていたら、あなたは物事を先延ばしにしてしまうかもしれません。でも、明日がもう来ないとしたら……?




大事なことを先延ばしする必要はありません。

「いつかは……」と思う気持ちが浮かんできたら、その「いつか」を決めること。
本当にやりたいことがあるのなら、出来るだけ具体的な日にちを決めて、実行すること。



踏み出せないことがあるのなら、そのことをしないでいることで起こる弊害を想像してみて下さい。

一度も挑戦せずに諦めることを、していませんか?
あれこれ理由をつけて、一歩を踏み出すことから逃げてはいませんか?


何かを実行してみて失敗したとしても、そこから何かを学ぶことはできます。
でも、何もしてみることがなければ、初めから何もなかったことと同じこと。ゼロです。
それは、そこにある可能性を殺してしまうことと一緒です。



そして忘れてはならないことは、「あなたにも必ず死が訪れる」ということです。
それは次の瞬間かもしれません。
もしかしたら、明日、大切な人が死んでしまうかもしれません。
死んでから「死ぬことがわかっていたならあれをやったのに……」と思っても、遅いのです(死んでからこのように思う主体があるかどうかは別として)。




「知行合一」
という言葉があります。

知るということは、行って初めてほんとうに知っている、と云えるのだということです。


あなたはあることを「考えて」いるかもしれませんが、それは考え・知識であり、知恵ではありません。知恵とは、それを具体的に行うちからのことです。




物事を行うには、しかるべき順序と忍耐と実行力が必要です。
何でも思うままにやっても上手くはいかないものです。
だから、まず「本気で」それを実行することを決めて、具体的な目標を定めることです。
その決定事項に縛られることはありませんが。

することと、しないことをある程度選択すること。
自分にできないことはそれを出来る信頼できるひとにしてもらうこと。
(人ひとりにできることは限られています。だからそれぞれに役割があるんです。
何でもかんでも自分ひとりでやろうと思っても、きっとどれも中途半端になってしまうでしょう。
自分の持つ能力を最大限に活かして、それぞれお互いに補い合うことを協力というのではないかと思います。)





もし、「本当に」やりたいことがあるのなら、与えられた有限の時間を大事に使うこと。
毎日を最後の日であるつもりで、生きること。





(私はそれを出来ているだろうか?)
正直に伝えること
心配や恐れの気持ちから言いだせないことがあるのなら、逆にそのことを言わないでいることがもたらす結果を想像してみて下さい。





格好つけないで、言ってみてください。

心に浮かんだ、一番シンプルな言葉で。



言葉でなくても、音楽や絵や、動きや表情、何でもいいと思います。





小細工や駆け引きはいりません。



一番根っこの、本当の気持ちだけ、伝えればいいんです。
好きなもの・こと
mixi日記の2月12日分。

今はこのブログを登録してるので、読めない。
でも、私にとって大切なのでここにメモ代わりに置いとくことにする。




「好きなこと・もの」

森とか林とか。土と草と樹と花と空気の匂い。青空。部屋のなかできく雨の音。良い服。シンプルなデザインのもの。タイポグラフィー。羽ペン。インク。本。北欧雑貨。トトロ。ナウシカ。フィッシュマンズ。UA。ムーム。シガー・ロス。アロマキャンドルで匂いのきつくないもの。お茶すること。ひとりでぶらぶら散歩すること。ぼーっとすること。ひなたぼっこ。洋雑誌を読むこと。遠くのピアノやヴァイオリンの音を聴くこと。キース・ジャレット。グレン・グールド。風に吹かれること。古い壁と植物の組み合わせ。白い壁。カサブランカ。生成り。きれいな人を見ること。軽トラの荷台に乗って、景色が遠ざかっていくのを見ること。雪が降るまえの匂い、雨の降るまえの匂い。雷がお腹にひびくこと。昼寝してるときに、遠くで人の話し声が聴こえること。5月くらいに、風ですりガラスの戸がかたかた揺れること。夏に川で裸足になって遊ぶこと。ノドが乾いたときに、冷たい水を飲むこと。大好きなひとと一緒にいること。気のあう人といろいろと語ること。毛布にくるまれること。お風呂に入ってさっぱりすること。知らないところへ行くこと。褒められること。悩みがスッキリすること。オルガン。好きなときに好きなことができること。お金。眠ること。他人が私といて楽しそうorリラックスしているなと感じること。ばぁちゃんの肉じゃが。イタリア料理。ベトナム料理。少しくせのあるもの。日が沈んでいくときに、誰かと一緒にいること。朝、新鮮な空気を吸うこと。とても美しいと思う瞬間に、誰かとそれを共有していると思えること。とにかく美味しいものが食べられること。新しい体験をすること。それと感じさせない思いやりを感じること。長距離走。夢のなかで、何か発見すること。空想すること。土曜(日曜)のカレーの匂い。芝生のうえに寝転がること。たまに映画を見ること。村上春樹の短編を読むこと(最近)。写真。色んな企画を考えること。あんまり面倒くさくないことをすること。白と黒と茶色と黄色。それからオレンジ。みずみずしいもの。乾いた空気としっとりとした空気。裸足で土の上を走ること(野生児みたいに)。広い場所で深呼吸すること。自分の言いたいことを相手がちゃんとわかってくれること。馬。鳥。セクシーなもの/こと。神秘的なもの。静かなんだけど、無音ではない状態。ひとりの時間と誰かと過ごす時間のバランスがとれていること。凄いと思ったひとやことを他のひとに紹介すること。またはそれを身につけようとすること。英語(イギリス英語)の音。日本語。テレパシー(?)。冗談が通じること。苦しくなるほど笑うこと。自分のペースで何でもやれること。人と比較されないこと。高台寺の傘邸。交通網がすぐ近くにあること。日曜日の昼間。平日の午前中に自由に動けること。大好きな人に大好きと言うこと。。。etc
ざわめき
アフリカ地域研究特殊講義?という授業のメモ;



熱帯雨林に棲息するサルの生態系


そこには沢山の種類のサルが共存している。

1.彼らは、それぞれ違うものを餌にすることによって(あるいは同じ食べ物でも食べる時間帯をずらすことによって)、食物の奪い合いによる争いを避けている。

2.熱帯雨林は地面から木のてっぺんまでの高さがかなりある。
そこで、サルたちは高度によって住みわけている。

3.同じ地域に住むサルたちは、別の種のサルが発する警戒の声を聞き分けることができる。そこで、樹の頂点付近にいるサルが警戒音を発すると、サルたちは地上に近い場所へ移動する。逆に、地上に近いところに住むサルが警戒音を発すると、その敵が見えるところまで降りてくる(自分の姿が獲物に見えてしまうと、相手は襲うのを諦めてしまうので)。

そこのサルたちは、別々の種同士が協力関係にある。


*     *     *

話は飛躍するけど

ヒトは、せかいに満ちている多くのメッセージになかなか気がつかない。
メッセージや答に満ちあふれているというのに。


せかいのざわめきに耳を傾けること。
言葉にならないメッセージを感じとること。


深呼吸
一日に何度か、深呼吸する。

私の場合、朝学校に行く途中で通るいい香りのする花の前と、学校(箕面の山奥)の樹がたくさん生えているところと、空を見上げたときと、バイトが終わって帰る道の途中で。



お腹いっぱいに吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
それを何度が繰り返す。

吐き出すときに、感謝の気持ちをもって吐く。




嫌な気持ちになったときも、深呼吸する。
吸い込んで、ちょっと止めてから、何でその気持ちが生まれたのかに気付く。
そして、感謝して吐く。




植物は、二酸化炭素を取り込んで、酸素を吐き出す。

それといっしょ。



自分が植物になったつもりで……というか「植物になって」、それを繰り返す。





深呼吸。
人体エコロジー。
高校1、2年生のころの日記
*    *    *

1997年5月16日の日記

人間はいつまで生きのびると思いますか?
永久に?  それとも……?



 信じて生きよう。
  人類が自然と共にあることを。
 いつも、信じていこう。
  私が風に還ることを。



 生きてください、長江。
 私も応援する。だから。


  己を制す。



*    *    *

1997年5月19日の日記


物質文明社会から精神文明社会へと変化する。



1年後、5年後、10年後……
せかいはどうなっていくんだろう?
私には見当もつかない。
  どうか どうか
せかいが幸せでありますように……


 限りある命だからこそ
    今を精一杯生きられる。

*    *    *

1997年6月14日(土)の日記

街を歩いた。

  様々な人たちとの出会いがあり、別れがあり。
  涙することの清らかさ。

   世界はやさしい。



 もし  人類に
   人間ひとりひとりに心があるのなら、
  語りかけることのできないことなんてないんだ。
    だから私は
   文章を書きたいんだ。


  この気持ち、伝わらないかな……?


   今、私は  歩き始めた。


     皆さん、私に力をかして下さい。



*    *    *

1998年9月15日の日記

晴天。いつかのあの感じ。


  還る。



 人間って、何なんだろう。



  時代が望むのならば
   私は何にでもなる。


  接着剤にでも、水にでも。



*    *    *

1998年6月28日(日)午前1時 
私自身へ宛てた手紙



真っ直ぐに生きて行ける。

道はどんなコンディションであっても、
  真っ直ぐに生きて行ける。
  最善のコースを、
  幸福として 最善である道を
 歩いてゆける。

  信じることができる。
  望むことができる。
  願うことができる。
  祈ることができる。
 手に手を取り合って、
 話し合って、
  精一杯 生きてゆける。

  幸福・平和を手にするために。

*     *     *

さぁ、振りかえるのはこのくらいにして。

次の一歩。
『聖なる予言』より
腐海プロジェクトのイメージは、小学校にあがる前にはもうありました。
それをかたちにする方法、言葉、行動、仲間、広義の「流れ」……私はそれらを求めて今まで歩いてきました。
でも、「求めて」いるうちは、決して辿り着けない。
最近思うのは、そういうことです。


このあいだの「腐海プロジェクト」という記事で書いていた、『聖なる予言』の一部分を書いておきます。

*    *    *    *    *
……第9の知恵は、意識の進化の結果として、次の千年紀に、人類の文明がどのように変化するか、説明しています。今とは非常に違った生活がそこには描かれています。
例えば、人類は自発的に人口を減少させ、私たちはみな、地球上で最もパワーのある美しい場所に住めるようになるだろうと、予言しています。
しかし注目すべきことは、ここと同じように美しい場所が、将来はもっと沢山できるということです。私たちは意図的に森林の伐採を止めて、木が成長しエネルギーを蓄積できるようにするからです。
 第九の知恵によれば、次の千年紀の中頃までには、人類は樹齢五百年の木々と注意深く手入れされた庭園の中に住むようになります。しかも、そこは、信じられないほど技術の進んだ都市へ、簡単に行ける距離にあると言っています。
その時には、生きる手段である食料、衣類、交通手段などはすべて自動的に生産されるようになり、誰でも自由に手に入れられるようになります。
私たちの需要は通貨を使わずに完全に充たされ、しかも、人々は贅沢にも怠け者にもなりません。
 霊感(インスピレーション)に導かれて、すべての人がいつ、何をすべきかきちんと知るようになり、それは他の人々の行動と調和します。所有する必要も安全のために人を支配する必要もなくなるので、過度に消費しようとする人は誰もいません。
次の千年紀には、人生そのものが今とはまったく別のものになります。
……
写本によれば、私たちは、自分自身の進化の喜びによって満足します。
つまり、霊感を受け取り、そのあと自分の運命がひもとかれてゆくのを、じっと見守る喜びによって、充たされるのです。
すべての人がゆったりとして、次にやって来る意味深い出会いに注意している世界を、写本は描いています。
こうした出会いはどこででも起こります。森の中の曲がりくねった道でも、谷間に架けられた橋の上でも、起こるのです。
 こんなにも意味のある重要な出会いを、あなたは想像できますか?
二人の人間が初めて出会う時のことを考えてみて下さい。
最初、互いに相手のエネルギーの場を観察します。どんな小細工もわかってしまいます。
次に、二人は意識的に自分の人生の物語を語り、二人のエネルギーが高まってメッセージが見つかります。
そのあと、二人はそれぞれ旅を続けます。しかし、彼らは以前とは非常に違っています。彼らの波動は新しいレベルに移行し、出会う前には不可能だった方法で、人と触れあうようになります。


*    *    *    *    *
生=アート
中学・高校と私が好きだった小林秀雄の文章を載せておきます。


*    *    *    *    *

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。
彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可(べ)き事実である。
この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循(めぐ)る真実は唯一つあるのみだという事である。
雲が雨を作り雨が雲を作る様に、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された真実に、世の所謂宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といい又異なったものを指すのではないのである。
この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身を以って製作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵(こしら)えている。

(小林秀雄『様々なる意匠』より)

*    *    *    *    *
素直さ
自分のことは、語らないことにしようと思っていたけど、語ってもいいかなといま思ったので、今日は少しだけ自分のことについて話そうと思う。


私は山村に生まれ育った。
ドがつく田舎。

家族は祖父母と両親と妹。

父親が友人の事業の連帯保証人になってすぐ全員に逃げられて、私が生まれてすぐに莫大な借金を背負った。
いつもいつも借金取りの電話がかかってくる。
小学校にあがるまえから、居留守をつかうことを覚えた。


貧困、喧嘩、病気といつも家のなかは大変だったけど、愛されていた。
自然環境もよくて、小さな学校で吸収できるものは何でも吸収できた。


だから、いま何も恨んだりしていない。
むしろそういう家庭環境に生まれ育ったことを感謝している。


すべて私に必要なことだった。
最近、いつもそう思う。




同じ障壁にぶつかっても、涼しい顔をして何でもない顔ですり抜けるひともいれば、ずっとその壁の前で自己憐憫にひたっているひともいる。
生まれながら与えられている厳しい条件によって卑屈になったりせずに、学びの機会にすることが出来たなら。



苦難を乗り越えたひとが素晴らしいと云っているのではない。
よく、そのことを武器にする人がいるけど、その人にはまだ乗り越えるべきものがある。



人にはそれぞれの役割があって、必要なものはいつも与えられている。
その与えられているものを活かすことができるかどうか、それだけだ。

自然に従うこと。
流れに身をゆだねること。
可能性に気付いて、希望を失わないこと。


素直であること。





時々、淀川の河川敷をひとりで歩く。
夜、ひとりで、裸足で歩く。


足の裏の土の感触、草の匂い。
川岸にただようひんやりとした空気。
対岸にまたたく光。
車と、犬の吠える声。
思い出。




生きてるんだなぁ。


何だか、涙がでてきちゃうよ。
ジャスミン
なんであんなにいい匂いなのかな。
無いと思ったら無い。有ると思ったら有る。
多くを与えるひとこそが、多くを受け取っている。


求められているものに対して、今手元にあるものが足りないからといって諦め、手元にあるわずかなものを失わないようにと必死になっているのなら、その人がその手元にある以上のものを手にすることはないだろう。

自分が持っているものしか与えることができないのだけれど、逆を云えば、多くを与えることができるということは、それだけ持っているということだ。
(*ここでの「与える」「持っている」という表現はあまり深くは考えないで下さい)



人には充分なものが常に与えられている。
だから、いくら周りに与えても尽きることはない。
それは泉のようにこんこんとわき上がってくるんだ。

握りしめているものを手放せば、あなたは受け取ることができる。




祖母にいつも聞かされている。
まだよちよち歩きをしていた頃の私は、誰かから何かをもらうと、必ずそれをその場にいるひとに「あい(はい)」と言って分けたそうだ。
そして大人たちが「ありがとう」とにっこりすると、嬉しそうにキャッキャと笑っていたそうだ。

いつから私は、自分の喜ぶことだけを追求するようになったのだろう。






人は可能性の塊だ。
そこからどれだけのものを生みだせるか、それを決めるのは自分自身だ。
(もうひとつ後退すれば違うんだけど)
私の告白と祈り
ある人の影が、いつも私のこころにつきまとっている。
影だから、いつもついてくる。



私はその人と自分がだいぶ似ていると思う。
周囲の友人たちも、そう云う。

もちろん、似ているところもあれば似ていないところもある。
何が「似ている」と思わせるのか、ということも知っている。


その相手は、ほとんど似ていないと否定してきた。
でもその否定のしかたがまた、私と似ている。
そのひとに自分自身を見ていたことを差し引いても。




ある時、そのひとは遠くへ行ってしまった。
私はそのひとと会話することもできず、自分のなかにあるそのひとの影がたえずうろうろしているのを見ていた。

ときどき、自分がその影に呑み込まれそうになった。
あやうく自分が影になるところだった。




「実体」のほう___その人のほうは、もう自分の世界で楽しそうにしていた。
ちょっと恨めしく思った。
その人は自分は約束は破らないといいながら、いくつか破ったから(そしてそのことに気付いていない。自分の言行が一致していないということに気付いていない)。

でも、もうそのことは赦さないと。
そのことに執着している自分を赦さないと。
その人の幸せを羨む自分を赦さないと。

いつまでも、そこに居続けることはできない。
そこから、軽やかに立ち去るだけ。





その人が私に望んでいることは、私が幸せになることだ。
それはその人からの愛だ。

私は自分自身が幸せになることで、その愛を本当に受け取る。
そして、自分自身が幸せになることで、その人を幸せにし、愛する。

そして、私はその人の幸せを祝福する。








ひとりで立てますように。
樹々が自分自身でたっているように、何にも寄りかからずに、ただ、そこに立てますように。

自然であれますように。
自ずと然るべき自分になっていくことを、喜んで受け入れられますように。


愛するひとたちと共にあれますように。
幸せを分かち合えるような、あるいはお互いがお互いの幸せの源泉であるような、そんな関係を築けますように。



何度も何度も同じところを行ったり来たりすることもあるけれど、それでも私は成長している。毎日毎日、少しずつ。


トラウマのせいにしない。
トラウマは、過去を見つめ、向き合うことでなくなる。

何かに傷ついたとしても、次に起こることは別の何かだ。
どうして傷ついたのか気付いているなら、次からは何かが変わる。





誰かを愛したとして、その愛が受け入れられなかったとして、もしあなたが傷付くならば、こう質問してみたらいい。

「なぜ、あなたは傷ついているのだろう?」


愛は、相手のこころを所有するためのものではない。





誰かを愛するということは、素晴らしいことだと思う。
何度も心を痛めて、もう愛することをやめようと思ったりしても、愛することはやめられない。愛があるから別れの苦しみがあるのだとしても。


誰かを愛する気持ちは、尽きることがない。
愛を出し惜しみしないこと。
それから、見返りを期待しないこと
(もしかしたら、素敵なパートナーと出逢うかもしれないけど。そうなったら嬉しいね)。





幸せでありますように。
こころから幸せでありますように。
同時多発的
100匹目の猿現象というのをご存知だろうか。


大学で、猿の研究に詳しい先生が数年前に話していた、イモ洗い行動が伝播するという話。
河合先生の研究結果はひとまず置いておくとして。ライアル・ワトソン氏や船井幸雄氏の云いたいことはかなりわかる気がする。




ヒト(とその社会)は近い将来、大きく変わるだろう。

そして、その変化は世界中で同時多発的に生まれることだろう。




これは予言ではないけど。
なんとなく、子どものころからの勘。




すでに、何かみえないものが、水面下で進行している。
それがあるとき、水面に浮上してくる。

同時多発的に。
もうすぐ。
(でも、それはもう既に起こりつつある!)

そして、それはあちこちで波紋のように地球上に広がっていく。





テロと違うのは、それが起きると人は幸せになっていくということと、自然に起こることなので一度広まってしまうと元には戻らない、というところだ。あと、誰も悲しまない(変化を受け入れられない人は別として)。


腐海プロジェクトもその波紋の一つになればいいと思う。








「死を待つ人の家」
マザー・テレサの本を読んでいたのは、一体いつのころだっただろう。




死は、言葉をこえている。

目のまえに、旅立っていくひとがいたとしたら、私はそのひとの傍にただ居れるだろうか。









いま、愛するひとがいるならば、精一杯愛すること。

いま、自分に繋がるひとを、こころから愛すること。





私は知っている。
言葉でいくら「大事だ」と云っても、本当に大事にしている気持ちがなければ、行動にあらわれない。

大切な人が死にかけているとしたら、まっ先にそこへ飛んでいくこと。
そして、傍にいること。物理的な話ではなく。

上部だけの気持ちか、心からの気持ちかは、相手には手に取るようにわかる。








私はこれを、自分自身にむけて書いている。


心から、愛すること。
自分自身も、周りのひとも。




そして、それが自分の行動として身につくこと。







100の言葉で云うよりも、それ自体になるということ。
私の名前は、某新興宗教団体の教祖がつけたものだ。
高校生になるくらいまでは、それが嫌でたまらなかった。


今はそれはそれ、私の名前は私の名前、というふうに思える。
その名前から自由であることも知っているから。



確かに、名前というのは呪縛にもなるだろうけど、その呪縛から解き放たれることは可能だ。一方で、その名前をしっかり引き受けることも可能だ。



私の名前には「喜」という字が含まれている。
自分も喜び、周りも喜ぶ。
そういう名前。

腐海プロジェクト2
腐海プロジェクトを具体的な形でつくりあげる場として、どこが適当なのかということを国内外問わず考えてきたのですが、さっき、1ヶ所すごくいいところが思いあたりました。


それは私の地元、阿蘇です。

まったく考えていなかったわけでもないのですが、阿蘇のなかでもその場所のことをすっかり忘れていました。とても良い場所です。

しかも、熊本の人たち(特に若いひとたち)というのは、スピリチュアルな分野に対して危なっかしくない感じで心を開いています。実際に活動をしている人も多いです。



何か始めようとするときには、自分が良く知っているところを足場として広げていくことが大事であるように思います。良く知っている風土、よく知っている人たち。




昔の私はそのことを良く分かっていたのでしょう。
その頃の日記に「阿蘇に還る」と書いています。

まぁ、先がどうなるのか予想はできませんけれども。



腐海プロジェクト
今日は私にとって、とても重要な日になりました。
何だか興奮してしまって、この文章をタイプしている手の震えが未だにおさまりません。

うーーーーーーん。



今日、大学内の古本市で『聖なる予言』(ジェームズ・レッドフィールド)の文庫本を見つけて買いました。
この本はとても有名な本ですが、私はこの手の本を読まないようにしていたので、今まで買おうと思ったことがありませんでした。
でも今日は何となく、読もうという気になって買いました。

最近、大学への往復路で本を1冊以上読んでしまうようになったので、今日読んでいたオグ・マンディーノの本の次に読む本を探していたのです。



そして、家に帰って『聖なる予言』を手に取り、パッと開いたページに書かれていたことが、私を興奮させました。
そこに書いてあったのは、ついこの間私が紙に書いた腐海プロジェクトの構想そのものだったからです!

こういうことを偶然ととるか必然ととるか、それは置いておいて、とにかく「あぁ、やっぱりこれでいいんだ」と感じました。



いま。ある人にプレゼントしようと思って買ってきたミニバラが目のまえにあります。

実は小学校1年生の頃、研究ノートと名付けたノートに、1日1つづつ発明のアイデアを書いていたことがあったのですが、その中に「バイオテクノロジーで開発されたミニバラ、ミニスズラン」というのがあったのを、よく覚えています。
その頃はまだ今のように商品化はされていなくて、科学者たちが実験でつくっている段階でした。そのミニ植物が、いま目のまえにあります。



ある夢や構想があるとして、それがあまりにも非現実的だと周囲が判断しても、それは周囲の判断……それも、その時々の常識に照らし合わせただけの判断でしかなく、もしそれが現実のものになると疑わずに努力すれば、きっとそれは現実のものになり得ます。


私にとって子どものころからこころに想い描いている夢は、単なる空想に留まらず現実になるものだと思っています。そして、そのために一歩一歩進んできたのだと思います。あまりにも今の世界と比べると実現しそうにないことだと、自分でその夢を枯らしてしまいそうになりながらも、何とかそこをくぐり抜けてきています。


腐海プロジェクトは、進んでいるのです。

そして、きっと目に見えるかたちにもなるでしょう。
それははっきりとこころで感じることができるものになるでしょう。



具体的なことをいちいち列挙することはしませんが、今日、私にとっての"徴(サイン)"がやってきたことだけ、ここにお知らせしておきます。



もしかしたらこれを読んで、私のことを心配する人がいるかもしれません。
「スピリチュアルすぎる」と云ってね。

でも、大丈夫です。


あー、嬉しい。
魂の共同体
私たちの正体について、過去から今に至るまで多くのひとたちが語ってきた。


私たちの正体とは、何か言葉で表現できない想いのようなものだと思う。
エネルギーといっても、光といっても、何でもいいんだ。
とにかく、、、何となくわかるでしょ?(わかるかな?)



ひとは身体を以てこの世に「存在」するのだけれど、いのちの正体……そのエネルギーみたいなものは、肉体がその形を失った後も絶えずこの世界のなかにあり続けていて、水のように循環している。

自分がたくさんの生命エネルギーの集合体なのだというふうに感じる。
食べ物を食べるたびにその食物のエネルギーを取り込んでいくのだし、祖先の命を引き継いでいるのだし、常に目にはみえない先人たちの想いを引き継いでいると思うから。
それは塊ではなくて、時空や空間を超えて同時に複数としても存在可能なものだ。



……こう書くと、オカルトちっくに思えるかもしれないけれど、
ブッダやイエスやカーネギーや老子やベンジャミン・フランクリン、その他大勢のひとたちはきっと、お互いに何か通じていたに違いない。
言葉では言い表せないあるレベルで、彼らはきっとうなずきあっているのだ。今も。


うまく書けないのがもどかしいけれど、私達は「魂の共同体」のようなもので、個人の喜びは全体の喜びでもあるということだ。
幸せに向かって、色んなアプローチを歩んでいるところ。
だから、皆が幸せであるように協力し合うようになったらいい。



起こることに本当は幸せも不幸せもないのだろうけど、だからといってそれをを分析しつくして、「はぁ~、私たちって不幸だよねぇ」と言ったって仕様がないような気がする。

不幸でありたいのか?それとも幸せでありたいのか?
幸せとか不幸せだとかいう区別は本当はないのだということを知っていて、その上で、幸せであることを選択することを、私は勇気と呼びたい。




目を瞑ってみよう。
あなたはきっと感じることができるだろう。
時空や空間を超えて、目には見えない多くのなにかが、あなたに向かって手を差し伸べていることを。
あなたは孤独ではない。
孤独だけれど、孤独ではないのだ。
手を差し伸べて、彼らと手を繋ぐがいい。
彼らからの深くて慈愛に満ちた想いを感じるといい。
ともにあることを感じるといい。


どうして、隣の人を憎むことができる?
彼(女)はあなた自身でもあると云っても過言ではないのに?



あなたの敵を愛そう。
あなたの隣人を愛そう。
あなた自身を愛そう。
あなたのいる世界を愛そう。

憎めば憎しみが、愛せば愛が、この世界に満ちる。



さぁ、あなたはどちらを選択しますか?



旅の途中
終わることのない旅の途中にいる。



終着地のない旅。

その旅路自体が大切なのだ。




私は私の脚で歩いている。

誰か他のひとに代わりに歩いてもらうということは、できないのだ。




恋人とは、見つめ合う2人ではない。
恋人とは、同じ方向に向かって一緒に歩むことのできる2人のことだ。


仲間とは、同じ道を歩む信頼のおける友のことだ。
あなたが歩けなくなったときに、もう一歩を踏み出す勇気をくれる人のことだ。



……なーんて。
定義することは本当はいらない。

ひとりで歩いても、誰かと歩いても、その旅を楽しむことだ。
疲れたら、その辺りに座って景色をみてみるのもよし。
咽が渇いたら、泉の水を飲むもよし。
ときどき振り向いてみるもよし。


わざわざ苦しむことはない。
誰かと競争する必要もない。


踊りながら、歌いながら、
時には泣きながら、笑いながら
歩いて行く。

そんな旅の途中。
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