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もういちど 沈黙について
kimya kabisa


たくさんの言葉の後には
沈黙がやってくる。


沈黙の後にはまた
言葉がやってくる。



それを繰り返しているだけ。


もうすぐ長い夜があける。



私よ、おやすみなさい。

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毒矢のはなし
毒矢がささって死にかけているひとがいるとする。
彼はもはや話すことはおろか顔をしかめることすらできない。


そこへ2人のひとが通りかかる。


ひとりは
「はて、この毒は何だろう?」
と云って、一生懸命に毒のことを調べようとするだろう。


もうひとりは
「そんなことより、はやく毒矢を抜いて助けなければ」
と云って、矢を抜き毒を吸い出そうとするだろう。




そこへ医者がやってきて
「ふむ、その毒ならこの薬を飲ませなさい」
と云って薬を飲ませて傷口に包帯を巻くだろう。


しかしその甲斐もなく毒矢のささったひとは死んでしまう。

家族がやってきて、彼を抱き締めながら泣き崩れる。


今度は宗教家がやってきて
「彼は天国へ行った。彼の魂は自由になったのだ」
と云うかもしれない。


誰かが犯人を捜し出そうとする。


ある学者は
「このひとはあの国の仕掛けた戦いの犠牲になったのだ。
なぜこの戦いが起きたのだ」
と考えるかもしれない。


他のひとは
「平和を」
と呟くかもしれない。




そして遺体は埋葬される。


埋葬業者は「気の毒なことでした」と言いながら遺体を埋葬し
その報酬で家族を何とか食べさせられることにほっとしているかもしれない。




あるひとが、毒矢によって死んだ。





はて、私は何を云いたいんだろう?


ともかく、毒矢がささっているひとが目のまえにいるときには
矢を抜いて毒を吸い出して病院へ運ぶだろう。
保育園時代に先生が蛍光灯を指しながら
「この光はずっとついているようにみえるけど
本当はついたり消えたりしているんだよ」
と言った。


最初、光とは粒子であると思っていた。
けれども、それが波であると書かれた本を読んだとき何か腑に落ちる感じがした。


電気は原子(電子)が移動して伝わるのではない。
波のように電荷の変化が伝わることによって伝わる。
ものが移動しているのではないのです。


ミジンコがなぜ「生きて動いて」いるのかということは、物理学や量子力学が探ろうとしたことの一つだけれど、結局今でもわかってはいない。
生命を技術によって「生みだす」ことは誰にもできない。
科学者たちは、いつもその先に「サムシング・グレート」の域を見いだしてきた。
生命が何だかわからないということをよく知っているのは、他でもない科学者たちだ。

(神秘主義者は科学主義者を非難するが、多くの人間の生活が科学の恩恵にあずかっていることは否定できない。蛇足だけれど、C.P.スノウは「二つの文化」の統合の必要性を指摘している)



さて、何をいいたかったのかな(苦笑)。


シュタイナーというひとがいた。
哲学者であり、優れた教育者だとも神秘主義者だともいわれているけれど、その彼が「純粋な音」というのが役立てられる時代がくるというようなことを云っていたのを、昔本で読んだと思う。


ここからは私の勝手な空想(とはいっても、この手の本を読むのは昔から好きだったのでその知識の影響はある)だけれど、この世を構成する全ての原子たち(あるいは電子たち)は絶えず動きまわり、波をつくりだしている。少なくともこの地球上では物質的に空っぽの空間はないので、その波動が伝わっていくというのは考えればあたりまえの話だ。
だから、その波さえ伝われば、私の声は地球の裏側にだって届く。
(匂いというのは粒子なので、電話の向こう側には普通は伝わらない。)

*量子の世界というのは、理論上成立している世界なので見ることができない。


「気」とか「波動」とよばれているものは、こうした波のことなのかなと思う。
(ちなみに「光」とか「エネルギー」というのも)

幸福を感じさせる波動というものもあるだろうし
逆に不幸を感じさせる波動というのもあるだろうと思う。

脳のアルファー波だとか何とかいうものは
もちろん意図的にコントロールすることだってできるだろう。
これは考えれば怖いことでもあるのですが。




何だか隙だらけだなー。
まぁいいや。



それで、誰かと「気が合う」とか「気が合わない」とかいうのは
その人が帯びている波と自分の波とが合わないということだろう。

ある場所にいて心地よいと感じるのは、
その場所にあるものが放っている波があなたの波と上手く調和しているからだろう。


こういうことは、別に科学的な話を持ち出さなくても
昔から多くのひとたちが云ってきた。




日本に住むひとびとは特にそういうことに敏感なんだろうと思う。




書いていて「あれ、何だか違うなぁ」と思ったことがあったんだけれど
何だったのか忘れてしまった。
ときどき嫌になること
ときどき、自分が頭でいろいろと考えてしまうことが嫌になる。


なぜ、考えてしまうのか?


けれどもおそらく、それも必要なことなのだろう。






こうしてブログに書くことは
自分自身の思考を整理するプロセスであり、
言葉をつかって自分が何を考えているのかを知る行為であり、
その排泄物を記録するということだ。

でも、それだけならノートに書き留めるだけでいいじゃないか。
ノートに書きとめることすら必要ではないかも知れないじゃないか。

なぜブログという場でそれをしようとするのか。




明日から無人島で一生暮ら暮らさなければならないとしたら
何をするだろう?

もしお金も時間もあるとしたら、何をするだろう?

逆に、こうして考えることを止めてしまい
ブログに書くこともなければ、何がどうなるだろう?



考えるという行為は何のためにあるのだろう。



私は、自分の考えを認めてもらうためにこれをしているのだろうか?
難しい言葉をつかって論ずるためだろうか?


「違う」という声が聴こえてくる。
「あなたはすでに自分のなかにあるものを引き出そうとしているのだ」という声。



言葉というのは手段のひとつにすぎない。



私の声がせかいのざわめきのなかにとけていくのが感じられる。





価値観の押し付け
ひとにはそれぞれの価値観がある。
それはそのひとが持って生まれたものと
環境によって身についたものとがある。
少なくともそういうふうに考えられている。

しかしそう考えている私の考え自体も
今までの経験や読んできた本によって植え付けられたものかもしれないと思う。



民主主義国家がそうでない国家に対して
民主主義を迫ることは
「民主主義がいい」という価値基準を押し付けることでもある。



よく「自立支援」という。
しかしその相手は本当に「自立」していないのか?
「自立するべき」と考えるひとは、なぜそういうふうに思うのか?
なにがそう考えさせているのか?
大阪外国語大学で学んでいること
スワヒリ語、ヨルバ語、ハウサ語、リンガラ語、フランス語、アラビア語、ヘブライ語、ギリシャ語、サンスクリット語……


外の世界でこれだけの言語を学ぼうと思えば、どれだけ大変なことだろう。
いま私はこれらの言語とその背景となる世界のことを学んでいる。

退学しても後悔はしなかったと思うけれど、
ここでいま学んでいることは、きっと私にとって大切な宝物になるだろう。


やる気になるまでにだいぶ時間がかかってしまったけれど、
何気なく卒業してしまってから後悔するのでなくてよかった。



この大学で本当によかった。
コミュニケーション 2
コミュニケーションとは近似的なもので、その相手が口にしたり思っている事柄についてのそこそこの推定値を探すことなのです。理にかなった推測をするなら、相手が自分と同一であるという暗黙の想定をし、そのうえで、たいがいは双方において、意識のレヴェルの及ばないところで、しかるべく修正を施す、ということです。(ノーム・チョムスキー)
自信がなさ過ぎると卑屈になり
自信があり過ぎると高慢になる
失ってからでは遅すぎるのですよ
失ってからでは遅すぎることがあります。


けれども、たいていの場合
失ってから気付くのです。

それがどれだけ大切なものだったのかを。


自分がそれをどんなに粗末に扱っていたか。
そのひとがどんなに大切だったか。



失ってからでは遅いことがあるのです。
修復不可能なことがあるのです。

気付いてください。



そしてもっとそれを大切にしてあげてください。



私はそのことをあなたへ向かって呼びかけています。
いまこれを読んでいるあなたへお願いしています。


「失ってから後悔することのないようにしてください」




何かが私にこれを書かせています。
いま、この瞬間に。



聞いていてつまらないと感じる(うんざりする)こと
他人のノロケ話と愚痴と自慢話ほど
聞いていてつまらない(うんざりする)ものはない。


そういう話「ばかり」しているひとは
自分のことしかみていない。

じきに友人を失うだろう。



補記:
もちろん、ノロケ話はしたっていい。
愚痴や自慢話だってもちろんオーケー。

ここで云いたいのは、閉じてしまって周りが見えなくなってしまうということ。

自分の幸せ、自分の苦しみ、自分の素晴らしさ……
「自分は」「私は」「僕は」
自分の気持ちを充分に味わうことはいいのだけれど、
自分のことばかり見ていると、周りのひとのことを見なくなってしまう。

ま、それも必要なことなのかもしれないけれど。
「世界を変えたい」というひとへ
世の中には「世界を変えたいんです」というひとがいる。

その「世界を変える」というのは
具体的にはどういうことなのだろうか。

なぜ世界を変えたいと思うのだろうか。



世界は「変えよう」としなくても
自然に「変わって」いっている。



おそらく「世界を変えたい」と思っているひとは
何かドラマティックな変化を想像しているのだと思う。

そしてそのひとが世界を変えたいと思うのは、たいてい
「そのひと自身が」いまいる状況に不満足だからだ。
「皆がしあわせな世界にしたい」
というのは、建て前にすぎない。
本当は、そのひと自身が幸せになりたいのだ。



私たちはこのせかいに、すでに「参加している」。
好むと好まざるとこの世界をかたちづくるもののひとつであるのだ。
あなたがあなたであるだけで、すでにこの世界に何らかの影響を及ぼしている。
逆にいえば、あなたは必要があってこの世に存在するのであって
あなたがあなたのようであるのは、世界がそうであることを望むからそうであるのだ。

すべてはお互いと影響しあっている。

それを意識していなくても、あなたは世界にとって必要なことを必要なときに為している。
世界を変えようとしなくても、すでにあなたはこの世界の変化の一部を担っているのだ。


(ちなみに革命や危機(クライシス)における団結と、それによってもたらされる状態は、長く続かないことが多い。
なぜならそれは、波の盛り上がった局面だからだ。
気分の高揚した、ハレの状態だからだ。)


本当の変化は、起こるものであって、起こすものではない。

せかいが望むことをしていけば、ほんとうは総べてが自然になるようになっていくはずなのだけれど、意識が邪魔してうまくいかない。



「世界を変えたい」というひとへ

それぞれのひとたちが必要なことをしていけばいいと思うのです。
必要なことというのは、それをしていてあなたが心から快いと思うこと。
気がついたらしてしまっていること。
それをすることによって、周囲の人たちが幸せを感じるようなこと。

何も特別なことをしなくてもいいのだと思うのです。

急激でドラマティックな変化は、おそらく本物ではありません(全てとはいいませんが)。
自然(しぜん)をみてみてください。
昨夜、夢をみた。


草原のようなところを
知らないたくさんの人たちと歩いていた。

雨が降った後なのか、地面は水たまりやぬかるみでとても歩きにくかった。

ある斜面の手前で、少し離れたところにいたひとが
あっと呟いて地面から何かを拾い上げた。

ふと地面をみると、そこには透明なピンクやブルーの宝石が顔を覗かせていた。
私は片手で拾えるぶんだけの宝石を拾ったけれど、
美しい宝石たちは大地に無数にちらばっていた。

まわりの人々も次々に宝石に気付いて拾い始めたけれど
それでもまったく減らないくらい豊かな数の宝石が、そこにはあった。



私達はもうそろそろ、あまりにも豊かなこの世界のことに気付いて驚くだろう。
愛するということ
がどういうことだかわからないけれど



幸せであってほしいし
幸せでありたい
昨年、生まれてはじめてなった病気に
またかかってしまった。

同じような忙しい状況と
ある人への気持ちのわだかまり。


そして昨夜の夢。


(本当は、起こること自体に「意味」はないのだけれど)
これらのことは一体なにを、私に伝えたがっているのだろう。



コミュニケーション
3時間かけて書いた記事がアップしたときに何故か消えてしまった。


もう2度と書けない。悔しいという気持ちはあるがしょうがない。


ただ書いた過程が大事だ。



私が書きたかったのは、あるひとに向けて
「自転車の乗り方を知っているのと、実際に乗れることは違う」
ということを受け取っているということだった。


その他に本当に色々なことを書いたのだけど、
こうして消えてしまったあとで、「結局何が言いたかったのか」ということを観てみると、その人へ、「私はちゃんとあなたからのメッセージを受け取っていますよ」と伝えたかったのだということがわかった。
(もちろんその人は、私へだけ向けてそう云っているのではないだろうが)



アウトプットに対するフィードバックをきちんと受け取ること。



コミュニケーションにおいて、自分の言葉や行動に対するフィードバックをきちんとみなければ、(たとえば議論における)意見のやりとりが堂々回りになったりする。
しかもそれはエスカレートしていく。

「なんでこのひとは、こんなこともわからないんだ!」
「なんであのひとは、口堪えばかりするんだ!」
と思ったときには、その言葉を自分に向けてみるといい。

自分がひとに対して言ったことばを自分に対しても言ってみるといい。


怒りを感じたときは、その怒りを相手にぶつける前にひと呼吸おいてみるといい。
怒り自体は悪いことでも何でもない。
必要があれば、枕を叩いたり、誰もいないところで叫んでみたりすればいい。
それらのエネルギーを溜め込まずに、放出してみるといい。
そして少し落ち着いたら、なぜそこで怒りが出てきたのかみてみるといい。
相手に自分が怒りを感じていることを伝えてみるといい。
(そのことが相手にとっても必要なことが多い)
怒りを押さえ付けることのないように。
(日本文化のなかにいるひとたちは、自分の気持ちを否定したり押さえ込んだり、言わ(言え)なかったりする傾向があって、鬱という症状のひとが多いのはそのせいだとも云われている。本当かどうかはわかりませんが)


それから、相手の間違いと思われることを指摘するときは、相手が自らそれに気付くようにする「やり方」がある。(そういう方法について書かれた本はたくさんある)
相手の意見を面と向かって否定すれば、相手もあなたの意見を否定することが多い。
ひとは「自分には価値がある」ということを相手にも肯定してもらいたい欲求があるから、何かの主張を否定されると、(相手にそのつもりがなくても)まるで自分自身を否定されたように思うことがある。
ひとは自分に優しくしてくれるひとに、自分も優しくする傾向がある。
(もちろんこれらのことには個人差がある)

人間は完璧ではない。
理不尽なことだってする。
でも、それを否定することはできない。
なぜなら理不尽さも何もかも含めて人間だからである。


失敗をしたら、そこから何かを学べばいい。
何度も失敗するのなら、何度も学べばいい。
失敗にある傾向があるとしたら、その失敗をひき起す行動パターンを変えてみるといい。
それはあなたに与えられた機会として受け取るといい。




それから。
自分にある言葉を繰り返し言い聞かせることは有効な方法である。
自分のなりたい姿や未来を繰り返しイメージすることは有効である。

英語を喋れるようになりたければ、喋れる自分を想像し、自分は喋れるのだと「思い込ませて」(ただし、思い込みすぎて喋れていないのに喋れていると思うこととは違う)、そして実際に努力をすることだ。
実際の努力なしに想像だけで英語を喋れるようになったひとを、少なくとも私は見たことがない。

そうして弛まぬ努力をしているうち、あるとき自分が英語を喋っていることすら忘れるときが訪れる。その時こそ、あなたは「英語を喋っている」。

呪いの言葉
自分に呪いがかかっていることに気がついた

言霊による呪いというやつだ


それを言ったひとも
まさか自分の放った言葉が相手に呪いをかけてしまっているとは
思ってもいないことだろう


そして呪いというものは
それを放ったひと自身にも跳ね返ってくるのだ



他人を罵しることのないようにしよう
それは自分自身を罵ることでもある

他人を否定することのないようにしよう
それは自分自身を否定することにもなる



あなたを取り巻くせかいを賞賛する言葉を使うことで
あなた自身もそれに包み込まれることを忘れないでいよう




前提条件
ずっと、納得いかないことがある。
私がそれを口にすると、友人は「それは○◯だから」と言った。
それでも私は納得がいかなかった。

なぜそうでなければならないか、私には理解できない。

ちょうど、「1+1=2」に納得がいかない人のように
私にもたくさんの「そうであらなければならない理由のわからないこと」がある。


そしてそこには「可能性」がある。


「1+1=2」というのは、ひとつの共通言語である。
そうすることで円滑になるものごとがある。


しかしその「1+1=2」ではないコード(価値観や世界感とも云えると思う)
が読み取られたときに、別の世界が「生まれる」。
ただし、それは厳密にいうと新しく生み出されるものではない。
それは全く新しいものではない。
それはいままでも可能性としてそこにあったのだから。



ひとは言語をつかって考え、物事を見たり聞いたり行動したりしている。
日本語の話者は日本語で、哲学者は哲学の言葉で、
ビジネスをしている人はビジネスの言葉で、科学者は科学の言葉で。

いわゆる「意識」というのは、言語(コード)によって成り立っているようなものだ。
そして多くの人々は普段、その言語をつかって「考えて」いるのだが、
そこでの言語が限定されればされるほど、可能性も限定されてしまう。
なぜならば、その言語の辞書に書かれていることを前提として物事を捉えてしまうからだ。
(右脳左脳、それから「こころ」の話はここではしない)


納得いかないということは
その辞書に書かれていることを疑うということだ。
ただし、手当りしだいに疑うということではない。

「2+2=4」「4+4=8」が覆されるためには
「1+1=2」という前提条件が覆されればよい。
(数学としては違うかもしれないが、言いたいことはおわかりいただけると思う)


あらゆることの前提となるところが変われば
それに関連することが変わってしまうのだ。


最小限のエネルギーで最大限のことをすること。
神とは
サイコロを振る主体ではない。

公共言語と個人言語
(合理的文化にもとづく)共同体における言説とは
語るべき・語られるべきなにかを代表者として語ることである。

それをあなたが語ろうが、他の誰かが語ろうがかまわない。

それは、誰かによって語られることを求めている。

共同体においては、ある企てがあり、人々は
それを達成(具現化)するために「協働」するよう要請されている。

要請されている事柄を感知する者は、それに従って行動する。
それは役割(ロール)であり、他者と交換可能なものでもある。
つまり、ある特定の人間にのみ実現可能なものではなく
他の誰かによっても成し遂げることが可能ななにかである。

共同体における「新発見」とは、
「(潜在的に)語られることが求められていたなにか」が、ようやく
共同体における合理的共通言語で語られるようになるということであり、
それを誰が初めて語ってもかまわなかったという点においては
個人の名誉(名声・功績)といったものは小さなものである。

(つづく)
全肯定
理由をあれこれ考えるのではなく、方法を考えること。


存在を全肯定すること。


「1たす1が2であるとする」こと。その勇気。


可能性を探るために疑ってみることと、
実際をわざわざ婉曲して見ることとは違う。

考えることは必要だが、
「何を」考えるか、を間違っている。


意識をこころのために働かせよ。
幸せであるために働かせよ。
自分自身が湧き出る泉であるということ
あなたという存在を通して
このせかいに顕われようとする何かがある

それはユニークな何かである



あなたが自然とあなたのようであるのは
そうなることを、せかいが望んでいるからであるといえる

あなたには、すでに豊かな何かが与えられていて
それは尽きることがない

あなたには、あなた自身を含めて
周囲の人たちを豊かにするだけのものがあるのだ

それは湧き出る泉のようなものだ



極端な利己主義も利他主義も
あなたや周りのひとたちを幸せにはしない


自分自身の豊かさを最大限にひきだすこと
そしてその豊かさを最大限に味わうこと

そのことが結果的にまわりのひとをも豊かにする
決心するということ
カント:汝の意志の格率が同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。

スピノザ:汝の活動力を増大させるように行動せよ。



私は神や自然を知らない
倫理や道徳も知らない

何が善で何が悪かも知らない


ただ、答がなくても
決心しなければならないことがあるのだ
足りるということ
ときどき、幼い日々のことを思い出す。

テレビはNHK以外見れず、夜になると外は真っ暗で
友達のうちまで歩いて20分もかかり
もちろんコンビニやゲームセンターなどは存在せず
深く深く語り合える友人もいず、
いつもひとりで畑か山か野原をうろうろして、
持っている本は何十回、何百回も読んでしまう……


そんな日々だった。


けれどもそれがこの私にとって
何よりも代えがたい贈り物だったのだ。


満ち足りるということを知っていた。
そしていまも知っていると思う。
自殺することについて
過去に2人の知り合いが自殺した。


ひとりは中学校時代の担任で、入水自殺した。

もうひとりは近所の名刺屋さんで、首吊り自殺した。



私の中には彼らの自殺が深く刻まれている。

自殺によって彼らがいなくなってしまったことよりも、
自殺するに至るまでの間に、
私が彼らのことを少しでも真剣に想いやったことがなかったということが
刻まれているのだ。



多くのひとは普段、(そういうつもりはなくても)友人のことを本当には大切にできていない。
ある人が重い病気になったり、自殺しようとしたり、事故にあったり
イベントをしたり、本を出したり、海外にいったりする
というようなことがなければ、あまり気にかけることがない。
気にかけていたとしても、実際に表現することができていない。



私は、死のうとすることであることを試そうとした。

それはあまりに醜い行いだったけれど
そのことによって、自分が何を信じようとしているのか
何を求めていたのかを確認した。

それは誰に云うことでもない。
ただ、私の根幹にありつづけるもの。
注意深くあること。気付いていること。
陰と陽とは一体である。

異なっていて
それでいてまた
同じである。



善と悪
正と誤
生と死
男と女
美と醜
……

それらすべての対立項は
実はひとつのものである。
違うものであり同じものである。




では、この世界における
善とは何か?
悪とは何か?

幸福とは?
不幸とは?


それは誰にもわからない。


ただ、どちらかといえば、幸せでありたいと願う。
幸せであると思われる状態でありたいと願う。
そしてその為に必要であると思われることを、なす。

(しかし仏教でいうところの解脱とは
その願いすらも手放したところにあるのだろう)





自分がいま、なしていることが
幸せに結びつくかということは結果をみるまではわからない。

わかるのは、フィードバック……結果だけだ。


もし魂が生を繰り返すとするならば、
人は何度も何度も同じ失敗を繰り返しながら
その結果をみて学習し、修正しながら
少しずつ成長していくしかない。

しかし、成長とは一体何だ?
成長とは変化の異名に過ぎない。
そして好ましい変化のことを進歩という。

「進歩」も「衰退」も
変化の過程(プロセス)のある一瞬を
過去の別の一瞬と比較したものである。



人生のある瞬間、
過去を振り返って現在と比較し
変わっている自分に気付く。

それだけのことだ。
それが進歩か衰退か
それを「判断」するのはいいが
それが本当に進歩であるか衰退であるかは
誰にもわからない。



今日行ったことの結果が明日をつくるように
今生が次の生を決定するという。

だが、ある行いがどのような結果をもたらすかということは
ある程度の見当がついたとしてもわからないものだ。
まさに一寸先は闇なのであり、
すべては過ぎ去り、変化し、「結果として」成長する。
一瞬一瞬が取り返しのきかない過去となっていく。


いま自分が行っていることに気付かずにいるということは
自分の生に無防備であるということである。

あなたがたったいま行った
あくび、くしゃみ
食事、排せつ
メール

その何気ないようなひとつひとつのことに
注意深くあること

自分が何を行っているかということに
気付いていること

持っているものしか与えることはできず
与えることのできないものを受け取ることはできない
新しいものなんて何もない
新しいものなんてない
古いものだってない

それは確かにあるのだけれど
ないのだ




新しい人間?

それがどうしたというのだ。



新しい大陸を発見?

それがどうしたというのだ。



新しいだとか古いだとか
なぜわかるのだ?





一番先でありたいものは
一番後であることを心掛けよ
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