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目に見えぬ繋がりと赦し
人と人との関係というものは
目に見えないことも
もちろん、ある


疎遠になっているから
喧嘩別れしたから
一度も会ったことがないから
……という理由で
あなたとその人との間に
今、こうしているあいだ、
何も関係がないということはない


あなたは現在の相手のことを何も知らない

今この瞬間、相手が何を思っているかなど
あなたにわかるだろうか?


あなたが知っているのは
過去のある瞬間、あなたというフィルターを通してみた
相手の一面にすぎない。

すべては過ぎ去るものだ。


過去に起きた出来事を未だに引きずって歩いているのなら
あなたはいつまで経っても解き放たれることはない。


恨み、苦しみ、罪悪感、傷つき、哀しみ……


それらを生んだ出来事を、ただ事実として受け止め、
赦そう。
他者と自分自身とを。


今はまだ無理でも、
それらの負の感情を誰か他の人や自分自身にぶつけるのではなく
静かに、時の流れのなかで変容するのを見守ろう。


今までと同じことをしていたのでは何も変わらない。

負の感情を負の感情のままにせかいへ戻せば
その負の感情はめぐりめぐってあなたへと
また還ってくる。

対して、
ゴミをバクテリアが分解して土に還すように
あなたがその負の感情をそこで何か生産的なものに
変容させてせかいへと還元すれば
それはめぐってあなたへと幸せを運んでくる。


あなたはせかいと繋がっている
ちゃんと繋がっている。

沈黙のなかに言葉にならない言葉があるように
眼にはみえなくても繋がっているものがある。

世界の反対側のひととも
きっとあなたは繋がっている。

一度でも、あなたが愛し愛されたひとたちは
なおさらのことだ。


憎しみ続けるには
愛し続ける以上のエネルギーがいる。

あなたが憎み、恨みつづけているときに
相手もまた憎み、恨みつづけていると思うか?


それは過去の出来事、過去の自分や相手だ。


あなたはずっとそれを続けるつもりだろうか?
もし相手がとっくにそのことを赦していたとしても?
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透明さ
透明な眼でものごとを見るということはとても難しい。



過去の体験と学習が
現在の感情的反応と行動を規定する。


そうしたmindの反応も受容しつつ
ある種の無感情な眼をもつことの難しさ。

ものごとを「判断」しないことの難しさ。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と「他力」
哲学・思想・心理学・文學・生命科学……


これらは総べて「こころ」や「生命」、「存在」に関する
違ったアプローチに過ぎない。

もともと同じようなものだ。



これらのそれぞれの「学問」には
ある「信仰」にも似た何かがあり、
「宗教」のようにも感じられたりするが
それは当たり前のことだ。
なぜならそれぞれの学問が目指すものの先に
明確な答などありはしないからだ。

明確でないものがあると不安なので
人はいつもその答を必要とする。


「人は死んだらどうなるのか?」
「魂は存在するのか?」
「意識とは?」


そしてそれぞれがそれぞれに
自分なりの答のようなもの___信仰を持っているのだ。
(「自分」では気がついていないとしても)


ところが、自分のそれに自信が持てないか
もしくはその重力に耐えることができなくなると
誰かほかの人の云ったことをすっかり自分の支えにしてしまう。

多くの所謂「宗教」はそうである。



もしくは、自分の「考え」をあまりにも信じきってしまうひとは
その頑(かたくな)さ故に、「自分」を超える自分の存在を
信頼し身を委ねることができない。

「自分には助けを求めることなど必要ない、
自分は自分(自力)で自分を助けることができる」
____「善人」とはこのようなひとだ。



自分はどうしようもない「悪人」であると自覚している人間は
すっかり自然(自分を含み、自分を超える何か)に身を委ねることをする。
それが浄土真宗でいう「他力本願」のようなものだと思う。

彼(女)は、すっかり楽にしているから
自然のほうも楽である。


一方で、自分の考えが正しいと思っている人間……
自分は何が良いかを知っていると思い込んでいる人間は
(もちろんそれが彼/彼女を幸福にするものであれば良いのだが)
それを手放して何かに身を委ねるということができないのだ。

彼(女)は、自分自身にすがっているので
他者を信頼して身を委ねるということができない。


このことは、川で溺れるひとを助けるときのことを想像すればわかる。

溺れるひとが、気を失っているか素直にあなたに身を委ねているかすれば
必死にもがいている人を助けるよりも楽に、川岸へ引っぱって行くことができる。

これは素直に「他力」を信頼しているからこそである。


「悪人」は「善人」よりも「他力」を素直に求める。




実はここでは浄土真宗の話をしているのではない。


「他力」(「他力本願」ではなく)とは「自然」とも「神」とも「仏」とも、または
「道(タオ)」とも「法則」とも呼べるもののことだと私は思う。
(もちろんこれは私のぼんやりとした意見であるので、思い違いかもしれない)


それらはわたしたちのこころをも含む全体のなかにくまなく潜んでいる。
何か別に存在するものではないのである。

おそらく。


仏教では生きとし生けるものすべてに「仏性」が潜むという。

ゴータマ・シッダールタは仏性を顕した「人間」であった。
仏性を顕した人間のことをブッダと呼ぶのであり、
ブッダという誰かが存在するということではないのである。



人は「神」や「仏」といったものが存在すると思ったりする。


しかし「神」や「仏」は「存在」はしない。
それは、あらゆるもののなかに潜むものである。

あなたの中にも、私のなかにも潜む「何か」
そして、私たちを超える全体にわたる「何か」を
「神」「仏」「道」などと別の言いかたで呼んでいるだけではないのか?


そうして考えると「他力」は実は自分のこころにも存在するということに気がつくだろう。



あなたは、自分以外の何かに身を委ねているつもりだが
実は「これが自分である」と思っている"意識"を含む
全体としての自分にさえも助けられているのである。


しかし毒矢の毒のことを知っても
肝心の矢が抜けないならば仕様がないのだ。


「如来」という「他力」を頼るということで
「悪人」が救われるのなら
それもまた「嘘も方便」なのだろう。




ああまたこうして
わけのわからぬ戯れ言ばかり抜かしている自分は
何とも愚かである。







愛しさ
ひさしぶりに大学へと電車で向かう。


車窓からみえる川面のおだやかさ
春霞のビルに落ちるやわらかな陽射し
ホームではしゃぐ子ども
座席でウトウトするサラリーマン
コンクリートの隙間から伸びる草々

そしてそれを眺めているちっぽけな自分



人間は愚かだけれど
そんな人間を、そして人間の営みを
愛しく思う。

世界は美しい。


そんな世界の美しさにふれるたび
生きることがどういうことだったか思い出す。
誤った方法を身に付けているものは
正しい方法を教えてもらってもなかなか身に付けることができない。

そして、正しくしようと思えば思うほど、上手くいかないものだ。
小国寡民
現代人は「賢く」なりすぎた____というのが
中学生の頃の私の論だった。

今そのことを考えると
そうであるともいえるし、そうでないともいえる。

*     *      *
世界は2つの極のあいだを運動するものである。
そしてそのあやういバランスの上に成り立っている。

常に同じ状態が続くことはありえない。


「強く」「明るく」「たくましく」
という時代はもう終わったのだ。

より「弱く」「ほの暗く」「優しく」「たおやか」
である時代へ向かっていくだろう。


*     *     *

腐海プロジェクトで考えている
世界中に点在する小さなコミュニティは
老子の「小国寡民」にとても近いものだ。

なぜそうであるかといえば、
深層民主主義が成し遂げられるには
今の社会は単位が大き過ぎるからである。
多くの人間関係における感情は
たいていの場合、対象ではなく自己に起因する。

それらの感情は対象との関係性のなかで浮き上がってくるものだが
その関係性をつくり出しているのは、もともとそれぞれのmindである。



本当に相手のことを見てはいないのに
自分の中につくりだした相手の幻影とやりとりして
怒ったり、悲しんだり、恨んだり、嫉妬したり、
ひとりでくたくたになってしまう。



ある人が何か言ったとしよう。
その同じ言葉に対して
Aは自分を非難したと受け取り、
Bは自分を褒めていると受け取り、
Cはただそのまま受け取る。



対象が問題なのではない
あなたのmindが問題なのだ。







無為ということ
自然な行いに作為はない。



そこには善意も悪意もない。

自然に善悪がないように。

感情があることを否定するのではない
そういう感情があることを認めたうえで
それを観察する自分を持っているということが
重要なのだ。

その感情がなぜそこに生じているのか
それを知ることだ。

それゆえに感情は気づきのヒントになる。


だがもしその感情に完全に同化してしまったなら
あなたはその公平な目をもつことができない。

あなたは「感情自身」ではない。


そういうことだ。
関係性の海へ飛び込む
自己の平穏な境地にいるものは
その平穏を乱されたくないがゆえに
世から離れようとする。

「わからずや」たちから
遠い場所に身をおいて
こころの平安を保とうとするのだ


しかし愛のあるものは
その道があることを知りながら
敢えて世俗の暮らしに身をおく

敢えて、わずらわしいこの世の
関係性の海へと身を投じるのだ
すべてに対して開いていること
あなたは
「自分はすべてわかっている」
「自分は何でも知っている」
「自分には他から学ぶことはない」
と思っているかもしれない。

あなたは
「それは奢りでも何でもなく事実なのだ」
とさえ云うかもしれない。


しかしそれもやはり
あなたがそう思っているだけなのだ。

あなたが「自分」と思っているのは
一体「あなた全体」のうちのどれだけだろう?


あなたが自分の行いを「事実だ」と判断したとしても
それは、あなたのmind(意識・思考・意志・感情)が
あなたのmindを基準にして判断しているにすぎない。

あなたがもしそのことに気付いたのなら
「自分」がいかに「井の中の蛙」だったかということを
知るだろう。


自己の全体性を知るひとは
自分を(他人と比べて)誇らないし
蔑みもしない。

「自分」のどんな部分も否定しないし
「自分」にとらわれもしない。

そして
「自分はこうであるはずだから、そうではない」
と自らの本当の姿を否定もしないし
「あの人のいうことは間違っている。自分のほうが正しい」
と絶対的な自信をもつこともない。


彼は開いている。
彼は自ら可能性を狭めることはしない。
訪れるものを選別し、閉め出すようなことをしない。

誰かとの関係を切ったり
ある考え方をはなから否定したり
見放すということはしない。


彼は開いている。
自己の全体性に対して開いている。
すべてにひらいている。






あらゆる悩みや問題は
贈り物である。

それを受け取り
それを味わおう。

そこから学ぶことができる。


初めはそれを
悩みであり
苦しみであり
問題であり
自分の道を妨げるものであると
感じるだろう。


しかし本当は
あなたがそう思っているだけだ。


あなたがそこから目を背けることなく
しっかりと観察することができるならば
それは悩みでもなく苦しみでもない。
そこからあなたは
「自分が何者であったか」
を知ることができるからだ。

あなたはそれらが
自分の糧であることを知るだろう。

そうすれば
あらゆる苦しみは苦しみでなくなり
あらゆる悩みも悩みでなくなる。


あなたは、泥のなかから
蓮の花が咲くのを見るだろう。
魅力は
暴力にも劣らぬちからを持っている。
あなたは相手をみているつもりだが
実は見ていない

あなたが見ているのは
あなた自身の影(シャドウ)だ



ときにあなたは、相手を納得させようと
躍起になって言葉を繰り出すが
それは空しい闘いである

あなたは合わせ鏡の世界へ迷い込んでしまう
何もないからこそ
いろんなものが生まれてくる


無限の可能性とはそういうものだ
自分を信頼するということ
あなたはあなたのこころを師とするがいい
mindではなく、こころを

誰もあなたに教えることはできない


「偉大な教え」に騙されて
あなた自身を失わないように
気を付けていなさい

それはあなたのものではない

誰か他のひとの考えに従うのでもなければ
真似するのでもなく
全体としてのあなたを信用し
そのこころに従いなさい

誰もあなたの師ではない


決して驕ることなく
すべてに学ぶことができれば
あなたのこころがあなたの師である
許し/赦し
あなたは初めからゆるされている

あなたが感じている罪は
初めからなかった


あなたを責めるものもなければ
あなたをゆるすものもない


それを感じさせているのは
あなた自身のmindだ


善と悪の区別というのは
もともとはないものだ

それを善だ悪だと判断しているのは
あなたのmindだ

何かを以て善とするから
何かが悪となる


あなたが判断することをやめたなら
善悪に悩まされることはない
ことあげすることは
自然ではない


あなたが云うのではなく
あなたが云わされることば

声高に叫ばれることばではなく
とつとつと呟かれることば


「私」を持たないことば

それが自然なことばである


「私」を持たない行い

それが自然な行いである

何も持たずにいなさい
あなたが両手にいろいろなものを持っていたら
何もつかむことはできない

だから何も持たずにいることだ
mind(意識・思考・意志・感情)は
あなたが全体としての自己であることを邪魔する

これははるか昔から
云われ続けてきたことだ

そしていろいろの
mindを操作(抑制・消去・変容)する方法が
生み出されてきた


mindはものごとを判断しようとする
ものごとを操作しようとする

あなたはmindこそ自己であると勘違いして
捕われ振り回されくたくたになる
mindはあなたの一部に過ぎないのに!


全体としてのあなたは何も「考えて」はいない
なにを「しよう」ともしていない
ただ全体に身を委ねているだけだ


実のところ、あれやこれやと
mindを操作「しよう」としているのは
他ならぬmind自身である

「可能性」は
あなたのmindを超えたところにある

あなたの努力とは関係なく
あなたに「気づきのとき」は訪れる


だから、諦めなさい


精一杯のことをしたならば
それから先のことはあなたを超えている

諦めて
そのときがくることを
信じてすべてを委ねていなさい
根元から絶て
「苦しみに打ち勝て」
「哀しみを乗り越えろ」
「幸せをつかめ」
……という言葉はもっともらしいが
真(ま)に受けてはいけない。


苦しみと闘って勝ったとしても
また次の苦しみはやってくる

哀しみを乗り越えても
また次の哀しみが待っている

幸せを求めれば求めるほど
幸せは遠ざかる

一方で

苦しみと闘うことをやめたとき
苦しみは自ずから膝を折る

哀しみがあることを受け入れたとき
哀しみは消えてなくなる

幸せを求めることをやめたとき
幸せは自らやってくる



肝心なのは
根元から絶つことだ

なぜならば、実のところ
苦しみも
哀しみも
幸せも
すべてあなたの
こころの産物であるから

それは幻である

あなたは
幻を相手に闘うのか?
幻を乗り越えようとするのか?
幻をつかもうとするのか?

それが幻であることに気づきなさい

幻は存在しないのだから
ないもののために
あれこれ苦労する必要はない



あなたのこころが空(から)であれば
あなたのこころは満ち足りている



そして
このようなもっともらしい言葉にこそ
騙されないように注意していなさい。
水の流れ
流れが止まれば
水は腐る
産婆はただ
妊婦の、自らを助け産むちからを奪わぬように

そのちからが上手く引き出されるように

臥所を整えるだけだ。
わたし
闘う必要はなく

特別である必要もなく

証明する必要もない




「私」というものも手放した


なにか
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