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「今この瞬間にしか生きられない」ことからくる恐怖
ときどき、ある特定の陽射しや風景や音や匂いに、特別な感情を抱くことがある。

それが何なのか、何と言えば良いのか、明確な表現を得られないまま時が過ぎた。


過去に同じものを見た、聴いた、嗅いだことがあった、と思う。
次に、その過去は記憶のなかにしかない、過去には戻れない、と思う。
幼かった私が見たカーテンごしの陽射しや、若かった祖母のことなど、
今ではないその時のことを思い出す。
そしてその過去を懐かしく感じると同時に、
切ないような、哀しいような気持ちになる。

過去をリアルに感じることは可能だろう、未来をビビッドに観ることもできるだろう。
けれども、生きているのは「今この瞬間」でしかないと感じている。
信じている、思い込んでいるだけなのだろうか?
時間軸というのは、人間がつくりあげた概念に過ぎない、のだろうか。


5歳だった私が疑問に思ったこと
「明日のことを想像することと、実際にその瞬間に体験することが違うのはなぜか」


「今この瞬間にしか生きられない」から、「戻れない過去」を懐かしむしかない自分が哀しいのだろうか。
あっという間に過ぎていく人生を儚んでいるのだろうか。
死ぬのに生まれ生かされていることの理由がわからず、恐怖を感じるのだろうか。


___疑問だらけの、悟りの境地にはほど遠い私です。
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私なりの愛
私にとって最も最優先させるべきことは、あるひとつのものをつくること。
そのこと以上に、私がいま存在することの意味はないと思う。

その過程で、所謂(いわゆる)一般的な「女としての幸せ」を経験できなくても、
私は決して自分の人生を犠牲にしたとは思わない。

それは、自分を含むすべてに向けた私なりの愛で
満ちあふれる最高傑作になるのだから。
メーヴェに乗りたい
数年前、八谷和彦のOpenSkyというプロジェクトで、メーヴェに乗る女の子を募集していた。(そのことを知ったときにはもう募集は終わっていて、珍しいキノコ舞踊団の山田郷美さんに決まったようだ)

お気づきだと思うが、私は宮崎駿監督作品の『風の谷のナウシカ』が大好きである。
そして、以前の記事にも書いたけれど飛行機も大好きである。
ハングライダーもいいけど、メーヴェに乗りたい。
飛行機
飛行機に乗るのが大好きだ。
今までに少なくとも40回以上は飛行機に乗っていると思うけれど、
たいてい翼の近くの窓際に乗る。

飛行中はずっと窓の外を見ている。

比翼の気流をコントロールする動きを見るのはもちろん、
上空からいろんな土地の様子を観察するのが面白い。
針葉樹と広葉樹の違いはよくわかる。
山のてっぺんには必ず雲が浮かんでいる。
雲の層はたいてい二層にわかれているように見受けられる。
いちど正月に、丸い虹をみたこともある。

人間の住む家々は密集している。
なんでそんなに、というほどに密集している。

でも、肝心の人間はちっぽけで見えない。

ちっぽけすぎて。

人生の転機
2年程前からのほんとうに苦しい時期を経て、いまようやく人生の次の段階への転機にさしかかっているのをはっきりと感じている。


悪い時期があれば良い時期もある。


素晴らしきかな、人生。



何度も書いているけれど、私は焦っている。

何を焦っているかというと、
自分が自分のしたいことを直感的に知ったのが小学校にあがるまえなのに、いまだに現実において、目に見えるかたちでそれを何ひとつ実践できていないことに対して焦っているのだ。

もう20年もの間、いったい何をしてきたのだろう?


もちろん、考えることはやめなかった。


でも、本気だったか?
私は本気でそのことに取り組んできたか?




私は恥ずかしい。こんな自分が情けない。


私のしたいことをするために大学を辞めたのに、まだ何も実行できていない。




一番の障壁は、自分自身の「現状維持したい」という潜在意識である。


自分自身の意識の劇的な変容(メタモルフォーズ)こそ、世界を変えるより先行すべき課題である。と思う。

私の原点 その1
このブログのタイトルにもなっている「腐海プロジェクト」について。
これから徐々にその構想をアップしていきたいと思います。


まず最初に言っておきたいのは、現在の私が今に至るまでの過程についてですが、(これは誰にとってもそうだと思うのですが)今まで関わってきたすべての事柄が私というものを作りあげてきた要素のひとつとしてあげることができるので、いくつかの事柄だけを取り上げて「これこれこういうことが原因で今の私ができました」ということがいえないということです。

つまり、私が今に至る過程というのは、私がいままで生きてきた過程そのものの一時的な結果なのであり、その結果というのも刻一刻と変化している…いまこの瞬間にも私という存在は変容していっているのですから、その過去(いまこの瞬間ですら一瞬の後には過去となる)の過程をすべて説明することは不可能に近いでしょう。



ただ、いくつかの主な要因は挙げることができると思います。


幼いころの体験のなかで忘れられないもののうちひとつは、
保育園の年長組のときの先生の、何気ない一言です。

お昼寝の時間に、先生が蛍光灯を指差して、
「この電気はね、点いているように見えるけれども、実は点いたり消えたりしているのよ」と言ったのです。
私はびっくりしました。
ずーっと点いているように見える電気が、実は点いたり消えたりしているというのはどういうこと!?と。

その先生がなぜそのようなことを言ったのか、どのような意味合いで言ったのかわかりませんが、すでにその当時、科学に興味のあった私は、なんとなくそれがミクロの世界に関わることだと思いました。

それから、小学校の低学年のころには原子というものを知り、どのような物体もミクロの視点で見れば、(バックミンスター・フラーの言葉を借りれば)連続してはいないのだということを直感したのでした。
ですから、私と誰か他のひとの間には、厳密には隔たりとか区別というものはない、というふうに思いました。

電気については、このころ光を粒子だと思っていたので、蛍光灯の端からでた粒子が反対側まで走っていて、それが連続していないから、先生は「点いたり消えたりしている」という表現をしていたのだと解釈していました。



二つ目。
同じ頃ですが、運動会の何日か前に居間の戸口にいたときのことです。

もう長いあいだ運動会の練習をして、あとは本番を待つばかりという日のことです。どうせ当日に行うプログラムの大半は練習でやってしまって体験済みなので、なんとなく想像がつくのに本番があるなんて、なんて面倒臭いのだろうと考えていたとき、居間の壁にかかっていたカレンダーが目に入ったのです。

そういえば、何月の何日に何があるかという大まかな予定は決まっていてある程度予想はつくのに、実際その瞬間になってみなければそのときの体験事態(あらゆる感覚)というのは得られない。ようするに、その瞬間の体験というものは、あらかじめシミュレーションできないその瞬間独特のものだということに、気がついたのでした。

運動会だとか何かの発表会だとか、そういうことを人間は決めることはできるけれど、そのとき、その瞬間に起こる出来事事態は誰にもプログラムできないことなのではないか。いや、もしかしたら神様がそれを決めているのか。だとしたら、これから起こることはすべてあらかじめ決まってしまっているじゃないか。。。大人たちはそのことについて知っているのだろうか??

…結局、私は親にそのことを尋ねませんでした。
なんとなく、それについて誰も答えることができないだろうと思ったのです。だから、そのことは自分の胸のなかだけにしまっておくことにしました。



三つ目。
自宅裏の畑にいるときのこと。
私は土をいじるのが好きで、学校に行かなくてよいときは、いつも祖父母と田畑に行ったり山に入ったり、野原で遊んだりしていました。

必要なものはそろっていたのです。

お金というもの意外は。

先祖代々伝わる土地と家がありながら、そしてほぼ自給自足の生活ができていながら、両親はお金というものが必要なのでサラリーマンになりました。この社会では、ただそこに存在するというだけで、お金を払わなければならないという仕組みがあります。

住民税、固定資産税、etc.


私は幼いころから、これがどうしても納得いかないのです。

なぜ、必要なものはそろっているのに、そこに住むだけでお金を払わなければいけないの?

両親のように、お金を稼ぐために一生あくせく働いて。
これでは家賃や食費のために、貨幣システム(社会システム)に無理やり閉じ込められて、ラットレースのネズミのように働かなくてはならない。家賃のために生きて働いているようなものです。
(働くということが自分の生と一致している場合は違いますが)

なぜ、生きるというこの体験自体のために生きることができないのか?



土地は誰のものでもなく、誰のものでもあります。

ネイティブ・アメリカンのひとたちが云うように、私たちの誰の所有物でもない大地や空気といったものを、どうして売ったり買ったりすることができるでしょうか?

この地球上で、ヒトがはじめて「この土地は私のものだ」と言ったときから、「所有する」ということが当たり前になってしまいました。

(今日では「所有する」というのがあたりまえになり、「共有する」という思想はともすれば安易に「共産主義」と捉えられてしまいます。)


話は変わりますが、もともと物々交換で成り立っていた私たちの社会は、お金というものを発明したことにより大きく変化しました。

お金が誕生することにより、富を保存蓄積する、ということが可能になります。

ここの部分は話せば長くなるし、まだ考えがまとまらないのですが、
まず作物などは腐ってしまいますが、お金は腐りません。

そして需要と供給の関係が1対1でなくてよくなるのです。
より複雑な商売というものが成り立ちます。

…まぁいろいろあります(笑)。

飛躍しますが、今私は、お金というのはエネルギーの保存形態のひとつであると考えているのです。

だけど、一般に云うお金それ自体は意味がありません。


富の定義とは、(フラーがどこかで云っていたかも知れませんが)、明日仕事をやめていつまで生き延びられるかというようなことだと思います。

いくら蓄えがあるかということではないのです。


また、成功の定義とは、朝起きて夜寝るまでに、自分のしたいときにしたいことをして過ごせることだと思います。

別に世にいうお金もちになることや、名声を得ることを成功と呼ぶのではないと思います。



私は、ただ生きる(生を味わう)ために生きたいと思います。

いつものように話にまとまりがないのですが、今日のところはここまで。

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