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奴隷解放宣言
決断とは、自らの未練をいっさい断絶することだと、あるひとが云った。
切り離してしまったものをもとに戻すことはできない、それほどのものでなければ、現状維持という居心地の良い状態を求めて過去からの習慣的自己に引き戻され、自らを書き換えることができない。


人間は、過去から連続した”私”があると勘違いする。
ほんとうは、常に変化しているのにも関わらず、それを認識することができない。
こうして自らの規定したイメージである”本当の自分”のなかに、多くのひとが閉じ込められる。


人生で出会うさまざまな問題のほとんどは、自分の考え方や習慣または環境を変えることで解決することが可能だが、そのことを認識することができないひとは、他人や社会や宗教のせいにする。みんな、「わたし」が大切で大好きだ。


適切な自己批判能力があればそうはならないはずだが、その能力は社会的教育によって育たないようにされている。
大衆は、本当に世界を操っているひとたちの思惑通りに、本当のことを知らされず、偽装された情報を信じ込まされ、バカであるようにプログラミングされた社会の中で生きているからだ。
こうして大衆は奴隷化され、富はいつも奪われている。
そのことを大衆が認識することはほとんどない。なぜなら信じきっているから。


だが、そんな支配者たちも宇宙の原理はコントロールできない。
そのことを認識する個人の思考もコントロールすることができない。


ちいさな近視眼的自己(=エゴ)に捕われている、自分自身に奴隷化された「わたし」を解放すること。
これはあたらしい奴隷解放宣言だ。


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上から目線
最近、心理学とか脳科学とか自己啓発とか多すぎて嫌になっている。
特にお金持ちになる、幸せになる。。。と称するセミナーはいったいどういうセンスかと疑う。
私もかつては面白く感じて色々と研究したものだが、今はそれらを俯瞰している位置にいるような気がしている。
いい加減、中途半端な理論やメソッドで夢を見せて、多くの人たちを喰いものにするのはやめたらどうだろう。


人のこころは、変えられるものではない。
それは、自然と変わるものなのだ。


人を変えてやろうと意気込んでいるひとに、人のこころが決して変えられないのは、このことを理解していないから。
本当に人を導くひとはそのことを理解しているゆえに、他人の感情を揺り動かし、眠っていた夢を呼び覚まし、自ずから変わろうとするこころをおこさせることができる。

そしてそのことを一番理解し上手く利用している人間が、今世界を思うがままに動かしているという事実。
その人間に洗脳され操られている人間たちがまた、お金持ちセミナーを行っている。
まさか自分たちが誰かの手下になっているということも知らずに。

早くそこから脱出しなさい。

私が「私」を忘れるとき
私の能力が解き放たれる

笑いながら目が覚める日 泣きながら目が覚める日
笑いながら目が覚める朝というのが、ときどきある。
夢で笑うことほど楽しい事はない。

亡きながら目が覚める朝というのも、ときどきある。
夢で泣くことほど哀しいことはない。
引き寄せる
最近、だいぶ暖かくなってきた。

実家からの電話で、20年前に私が植えたヒヤシンスが
今年も咲いていることを知る。
もうすぐ、アネモネも咲くだろう。

私が世話をしなくても、ヒヤシンスやアネモネは
メタボリック(新陳代謝的)に生き続けている。
これは自然の授けた最大の富のひとつである。


先日から、小さな面白いことが私の身に起こり続けている。
それらを引き寄せ、引き寄せられているのは引力の働きである。
これは、フィジカルなことだけでなく、
メタフィジカルなことにもまた引力が働いているということだろうか。


memento mori「汝は死を覚悟せよ」
数年前、ひどくショックなことがあって
現実から逃げようとし、
死ぬ方法をいろいろと考えた。
しかし本当には死ぬ気はなかったと思う。


柄にタオルを巻いた包丁を腹に押し当てたまま、
何日も布団に寝転がり、暗い天井を見上げていた。

ビルの屋上から飛び降りる?
練炭?
洗剤か油を飲む?

結局、4日間絶飲食し、その後大量の酒と睡眠薬を飲んだ。

ところが何時間経っても
眠りに落ちるどころか目が冴える一方で
心臓の鼓動だけがやけに大きく響いて
そうこうしているうちに誰かが私の家のチャイムを鳴らした。

それらは今振り返ると、とても弱虫だったとも思えるし、それでもギリギリの線で生きることの価値を探っていたとも思える。


あのときは、死にたくても死ねなかった。
今は、生きたくても生きられないかもしれないという恐怖と闘っている。


もちろん人は必ず死ぬのだが、
もし私があと少ししか生きられないのならば、何をするだろう?


これは、人生という時間が有限のものであることを、私にはっきりと認識させる。
死の床で、あるいは死ぬ瞬間にこのことに気づくのではなく、まだ身体が比較的健康なときにこのことに気づけたことに感謝する。


さぁ、私はいったいどんな意味あることができるだろう?

いのちの砂時計は、今も落ち続けている。
重要度
少し前まで自分のなかで大事だったことや関心のあったことが、
最近あっという間に重要でなくなってしまった。

これはひとつのエフェメラリゼーションかもしれない。
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